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ポルトガルから北スペインへ-7

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

ポルトガルから北スペインへ-7

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

いよいよ最終日となりました。
リスボン市内の観光です。
まず世界遺産のジェロニモ修道院に行きました。
次に「発見のモニュメント」にいきました。
ここには大航海時代の地図が地面に地図のタイルがはめ込められていました。
その当時の日本はこう描かれていたということがわかりました。
でも結構正しいですよね。びっくりです。だれがこの地図を書いてそれで航海をしていたのでしょうか?
その大航海時代の人物たちをこのモニュメントで表しています。
エンリケ航海王子が先頭にいます。彼は大航海時代の先駆的指導者で英雄です。
彼を筆頭に約30名の像が立ち並んでいます。
有名なところではヴァスコ・ダ・ガマ (インド航路発見者)、フェルナン・デ・マガリャンエス(フェルディナンド・マゼラン) などがみられます。マゼランは初めて世界一周を成し遂げた人です。
また最後の方にフランシスコ・ザビエルの像もあります。勿論、日本へ1549年にキリスト教を伝道した宣教師です。
1500年代の歴史を思い浮かべながら、次に移動しました。
皆さま、可愛い外国人の少年がきれいな景色をバックに「消臭リキット~~~♪」と歌うコマーシャルを聞いたことはありませんか?
リスボンの街中の高台にあるところで収録されたそうです。
私たちもそこをバックに歌ってみました。
さすがにコマーシャルの景色に選ばれただけの素敵なロケーションでした。
これでリスボン市内の半日観光は終了しました。


ポルトガルから北スペインへ-6

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

ポルトガルから北スペインへ-6

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

旅行もそろそろ終盤になりました。
まず、オビドスという城壁に囲まれた中世の美しい「谷間の真珠」と呼ばれている町に行きました。城壁は13メートルあり、その上を歩くことができましたが柵も何もないのでちょっと怖かったです。でも景色はとてもすてきで町中にはたくさんの教会やカフェやレストランがありました。
そこを出発して今回の旅行の目的の一つであるヨーロッパ最西端のロカ岬に向いました。
その岬はかなりな崖の上で風が強く飛ばされそうでしたが、何とか見学をしました。
行ったという証明もしてもらいました。もちろん費用がかかりましたが記念ですから書いて頂きました。
昔、まだアンカレッジ経由でヨーロッパに行った時に北極点通過の証明書を頂いたことを思い出しました。
もう二度と行くことはないと思いますので、記念になりました。
夜はリスボンに入り、先日の美女二人組と一緒にファドを聞きに行きました。

ポルトガルといえばフランスのシャンソンのように「ファド」という国民に愛されている唄があります。
どちらかというと寂しい歌詞なのか、ポルトガル語がまったくわからないでしたが、そんな雰囲気の歌でした。
勿論ワインを飲みながらゆっくりと2時間くらい楽しみました。
リスボンという町は長崎に似ていて、石畳と細い坂道が多いです。
上にあがると海が見えるところも長崎に似ていました。
タクシーをホテルで呼んでもらいそのレストランまで行ったのですが、その急な細い坂道をすごいスピードで飛ばすので本当に怖かったです。
そのうえそのタクシードライバーが興に乗るとハンドルから手を放して、助手席や後部座席を見るので「お願いだから前を向いてハンドルを握って」と日本語でお願いいたしました。
帰りなどはもっと面白がってジェットコースターのような運転をするので、心臓に良くなかったですが、私たちが怖がるので、運転手さんは大喜びでした。
私は後ろの座席だったのですが、娘は助手席だったからどんなに怖かったかと恨まれました。
でもたっぷりワインを飲みながらファドを聞くことができて、ポルトガル旅行の目的を果たしました。


ポルトガルから北スペインへー6

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

ポルトガルから北スペインへ-6

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

次の訪問地はナザレです。パレスチナのナザレと同じ名前ですが、言い伝えによれば4世紀にパレスチナのナザレから一人の聖職者が聖母マリア像を持ち込んだことにちなんで町の名がついたそうです。
ナザレは、絵のように美しい海辺の村として売り込み、人気の観光地となった。大西洋に面し、長い砂浜を持ち、夏期には観光客で混雑する(ポルトガルでも良質の砂浜とされる)そうですが、今回は冬でしたので、それほどの観光客はいませんでした。山の上からの眺めはさすがで、フランス映画「過去を持つ愛情」の舞台になった海岸線のとても美しい町でした。
またこの海岸の波は30メートルを超えることもあるそうで、サーファーの聖地だそうです。
確かに砂浜を歩いていると遠くに白波がたっていて、ドドーンと夜など怖いくらいな波音でした。
ここでの夕食は有名なイワシのお料理でした。

とっても和風で、添乗員さんがポン酢とお醤油と割りばしをもってきてくださいましたので、お箸でポン酢をかけてすっかり和食として頂きました。
大きくて太ったイワシは美味しかったので、三本完食しました。もちろん美味しくて安いポルトガルワインを飲みながらです。このツアーで仲良くなった美しい熟女2人と私たち母娘の4人で2本あけました。<(笑)>


ポルトガルから北スペインへ-5

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ポルトガルから北スペインへ-5

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

コインブラから今度はトマールというところに行きました。
そこにはキリスト教修道院(ポルトガル語でConvento de Cristo em Tomar)がありました。

まるで要塞のようなその建物は修道院というよりは、中世のお城のようでした。
12世紀にテンプル騎士団によって建設され、14世紀にテンプル騎士団に対して解散命令が出た後、ポルトガルに存在したテンプル騎士団は、キリスト騎士団へと改編され彼らが管轄することとなったそうです。キリスト騎士団は、大航海時代のポルトガルを支え、ポルトガル海上帝国の礎を築いたことで有名です。
このキリスト修道院は1983年に、ユネスコの世界遺産に登録されました。
内部を見学するととても機能的で無駄がない設計でありながら、それでいて美しい装飾がされている円堂などはここに来て良かったと思わせてくれるのに十分でした。
ポルトガルで世界遺産をたくさん見ましたが、ここも感動を与えてくれた素晴らしい遺産でした。

たくさん写真を撮りましたが、この二点を選んでみました。


ポルトガルから北スペインへ-4

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ポルトガルから北スペインへ-4

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

ポルトから今度は世界遺産に登録されているコインブラ大学があるコインブラを訪れました。
12世紀にポルトガル王国最初の首都がおかれた街で、現在はポルトガル第3の都市です。
丘の上にただずむ2013年に世界遺産となった大学は、名実ともにコインブラの街の中心です。
1290年にリスボンで創立された大学が、コインブラに移転されたことがコインブラ大学のはじまりだそうです。以来、コインブラの街は大学とともに発展してきたと言われています。
街全体を見下ろせる丘に建っていて、写真のように広々としたキャンパスです。
大学の中には入ることができませんでしたので建物の外側だけの見学でしたが、壁などには素晴らしい彫刻がされていました。

大学から石畳の急な坂道を下りて行くと、その両側には学生たちが下宿している古い建物のアパートがありました。なんだか中世の街にタイムスリップしたみたいでした。
坂を下り切ると海に面して商店街などがある可愛い街でした。


ポルトガルから北スペインへ-3

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ポルトガルから北スペインへ-3

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂

ポルトに宿泊して翌日来北スペインのサンティアゴへ出発しました。
途中国境を越えて左手に大西洋を見ながらでの行程は、今回の旅行の目的の一つであるコンポステーラ大聖堂を見学するためにです。
数年前にテレビの番組で巡礼者の最後の到着地であるこの大聖堂を映像が流れて、あまりの荘厳さに一度行ってみたいと思っていました。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂 (スペイン語: Catedral de Santiago de Compostela)はスペインのガリシア地方にある大聖堂で、ヨーロッパ三大聖地の一つ、サンティアゴ巡礼の終着点だそうです。
この大聖堂を調べてみると
サンティアゴ・デ・コンポステーラには、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸があるとされ、ローマ、エルサレムと並んでキリスト教の三大巡礼地に数えられている。
1000年以上の歴史を持つ聖地への道は、今も年間およそ10万人がフランスからピレネー山脈を越えてゆく。スペインに入ると、巡礼の拠点の街が見えてくる。そこには巡礼事務所があり、名前を登録し、巡礼者の証明となる手帳を受け取る。巡礼者の数が増えると共に、道沿いには無料の宿泊所が整備されてきた。11世紀の礼拝堂を修復した宿泊所などもあり、こちらの宿では中世さながらの「洗足の儀式」が行われる。巡礼者の足を水で清め、旅の無事を祈る。食事も用意される。これらは巡礼を支える人々の無償の奉仕で成り立っている。徒歩によるスペイン横断は、イベリア半島内でもおよそ 800kmの道程である。長い巡礼を続けることは、人々にとって信仰と向き合う貴重な時間となる。
大聖堂の5km手前にある「モンテ・デル・ゴソ(歓喜の丘)」。巡礼者はここで初めて美しい聖地の姿を眼にする。徒歩でおよそ1か月の道程。大聖堂に到着した巡礼者は、「栄光の門」と呼ばれた入り口に向かう。そこには幾千万もの巡礼者がもたれるように祈りを捧げてきた柱がある。手のくぼみのあとが歴史を物語っている。
とある。
この歓喜の丘には写真にあるように二人の巡礼者が大聖堂を見つけて感激している銅像がありました。

巡礼者はホタテ貝の殻をぶらさげています。
これは巡礼の時に道々で施しを受ける時に使ったそうです。日本では托鉢のお坊さんがお椀をもって歩くということと同じだと思いました。
私たちもまずこの歓喜の丘に行き、そこから大聖堂の塔を見て巡礼も何もしていないし、バスで来ていますが巡礼者の気分になりました。
次に大聖堂に行きましたが、本当にテレビで見た通り荘厳で威圧するように大きかったです。
中に入ると巡礼者が集まった大きな礼拝堂があり、そこには香炉を長い綱でぶら下げてありました。これは巡礼者の匂いを消すために焚かれたそうです。それほど巡礼者はただひたすらこの大聖堂を目指して歩いて来たということです。
ここで半日過ごし、またポルトガルへと戻りました。


ポルトガルから北スペインへ-2

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ポルトガルから北スペインへ-2

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

バターリャ見学後、ポルトへ移動しました。
ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。だが、ローマ以前のケルト文化の名残であるシタデルも市外の中心にも残存している。ローマ時代の周辺をコンダドゥス・ポルトカレンシスといい、ここに成立した王国が、ポルトガル王国となった。ポルトガルの名はこれに由来する。と書かれています。
1996年、「ポルト歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されています。そしてポルトはドウロ川沿いにあるポルトガル第二の商業都市で坂の多い美しい街でした。
まずポルトというとポートワイン(日本では赤玉ポートワイン)でしょう。ドウロ川上流流域で収穫されたブドウから作られるポートワインは一次発酵の途中でブランデーを加えたもので、芳醇な香り魅力。少し甘い赤ワイン、それから熟成された白ワインと写真をみて頂くとわかると思いますが、赤は濃く、白は少しクリーム色です。

この二種類のワインを「サンデマン」(怪傑ゾロのシルエットで有名)というワイン工場で試飲をさせて頂きました。
赤は重く、甘くてどちらかというとデザートワインかなと思いました。白ワインはクリーム色がかっているようにさらっという感じではなく、まったりと舌と喉を通って行きました。私の好みは白ワインでした。

このあとは市内観光です。
まずドン・ルイス1世橋という1886年にエッフェルの弟子によって作られた珍しい二重構造の橋を見学しました。やはり作りはエッフェル塔を横にしたような橋でしたが、渡る時につなぎ目から下のドウロ川が見えて、高所恐怖症の娘と手をつないで恐る恐る渡りました。ようやく反対側にたどりついて、後ろを振り向いたらツアーの仲間がだれ一人いません。慌ててわき目もふらず走るように戻りました。
集合場所には仲間がそろっていて、皆さんはどこまで行っても同じ景色だからと途中で戻ったそうです。私たち二人の恐怖はなんだったんでしょう!

次にサン・フランシスコ教会にいきました。
サン・フランシスコ教会 (Igreja de São Francisco)は、ポルトガル・ポルトにある重要なゴシック様式の教会。バロック様式の内部装飾で知られている。教会は市内の歴史地区にあり、ユネスコの世界遺産に登録されているます。
後はポルト駅を見学して今日の観光は終了しました。

 


ポルトガルから北スペインへー1

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

ポルトガルから北スペインへ-1

+    宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 急に思い立って長女と二人で旅に出ました。
夫と次女は長期旅行が苦手なのでお留守番をお願いして・・・といつものパターンです。
旅行の準備はいつも前日、時間ぎりぎりに出発ロビーへ!
ロビーの窓から眺めると、自分たちの荷物が機内に運ばれるのが見え、やっと余裕が出てワインでもという気分になりました。
成田を出発してヒースロー空港での3時間半の乗り継ぎ時間を含めて16時間余というフライトでようやくポルトガルの首都。人口約50万人のリスボンの空港着・・・機内での適度?な飲酒が効いて足元は少々ふらつきますが体調は絶好調です。

予約したホテルに荷物を置いて長旅の疲れを熱いシャワで流して直ちに行動開始、まず、ホテル前で同行二人でパチリ。多分、この写真を見た人は、「もしかして姉妹?」と思われるかもしれませんが、そう思っても口に出してほしくないのです。私は気分がよくても娘が極端に不快な顔をするからです。
さて、路面の行きかう石畳の情緒ある街並みのリスボンを離れて、自然そのままの美しい景観を眺めながら私たちがバスで向かったのはリスボンから120キロ離れた小都市・バターリャです。バターリャとはポルトガル語で「戦い」の意味ですが、ここに建つ世界遺産にも登録されたバターリャ修道院は、史上有名なアルジュバロータの戦いでポルトガルの独立を守った勝利を記念し神に感謝して作られた、別名を『勝利のサンタ-マリア修道院』といいますが、現在は平和のシンボルとなっています。
延べ15人の建築家によって14世紀から150年かけて建てられたゴシック建築の傑作とされるバターリャ修道院は、息を呑むような装飾と建築技術をみせて、まさしく芸術的建造物です。しかも、これでもまだ未完なのだそうです。

と、ここまではほぼリアルタイムで開運村本部に国際メールですが、続きは次週、1日(金)帰国ですから間に合います。


慶応義塾発祥の地

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

慶応義塾発祥の地

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

開運道花見サロンのある築地界隈は、歴史的に見てたくさんの遺構遺跡がある地です。花見サロンに行くたびにここを歴史的人物がどれほど歩いたのかと思うと胸がドキドキします。
サロンから築地本願寺の左後ろに見える、聖路加国際病院のすぐそばに慶応義塾発祥の地を刻んだ碑があります。
写真のような碑と説明文の掲示があり、その横には説明の碑があります。
写真ではよくわからないのですが、碑文には、『慶應義塾の起源は1858年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由 来する。その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当たる。この地はまた1771年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで日本近代文化発祥の地として記念すべき場所である。』
とあります。 なるほど、そうだったのかと納得しました。
この地のそばに桂川甫周の屋敷跡があり、その甫周の家が蘭学のサロンでした。
江戸に出てきた福沢諭吉先生が蘭学を学ぶためにこのサロンに入り浸っていたことは有名です。
そのことは甫周の娘、今泉みねが回想した「名ごりの夢」(平凡社発行東洋文庫)という本があり、その中の「福沢先生のお背中」という文章で面白く語られています。
これからは道のあちこちに建っている歴史的説明の碑があったら気を付けてみるようにしようと思います。
なお、桂川甫周に嫁いだのが私の親族、我が祖と福沢諭吉は咸臨丸絡みの身内同様の仲、不思議なご縁を感じながらも親しみを感じる探訪記でした。


冬の軽井沢  宗像信子

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

 

 

冬の軽井沢

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

一月末に冬の軽井沢に行ってきました。
軽井沢は物凄く寒いと言われたので、重装備をしていきました。
しかし着いた日はお天気も良く、また空気が澄んでいるのでとてもきれいに雪景色の浅間山が青空の中に見えていました。

また反対側にはスキー場が3コースほど見えました。
いつもは群馬県の嬬恋方面の北軽井沢に行くので、浅間山がお釈迦様の寝姿にみえます。それはなかなか色っぽくて美しい山並みです。
今回は長野県の軽井沢からの眺めなので、白い雪山が見えるだけでした。
またホテルの前に池があり、そこに2羽の白鷺がまるで置物のように池の中に浮かんでいる小島にいました。
あまりに動かないので、ホテルの飾りものかと思っていたら、何か餌になるものを見つけたのか1羽が突然飛び立ち、池の中を歩き始めました。
どんどん歩いてホテルに近づいて来るのでどうするのかと見ていたら、突然水面に首を突っ込んで餌を嘴で捕まえたようでした。
もう1羽の白鷺はそれを見ているようでしたが、全く動きませんでした。

餌を捕った白鷺はまたその小島に戻りましたが、また2羽で置物になりました。
次の日は午前中はお天気でしたが、お昼頃から急に雪が降りだしあっという間に雪景色になり雪が積もりだしました。
スキー客が多かったようで、それまでそれほどの混雑ではなかったのですが、夕方になるとスキー場から帰ってきた人たちですごい人出になり、子供たちは喜んで新雪を踏んで遊んでいました。
前の日は邪魔だった雪対策の重装備が役にたちました。
9日土曜日は東京も雪になりましたが、一足先に初雪体験をしてきました。