このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)が担当します。
「戊辰・白河戦争」ものがたり
楢崎屋敷物語(高見フサ口伝)~白虎隊士と長州藩士の秘話~2
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)
以下に、「恩愛の碑」建立に至る経緯を、白虎隊士飯沼貞吉の孫・飯沼一元氏の文章により紹介します。
◇◆◇今から19年前、「飯沼貞吉が長州の美祢市楢崎屋敷で養育されていた」という怪文書が届きました。
悪い冗談は止めて欲しい。飯盛山で自刃に失敗した貞吉は、「生き返るような切腹の仕方は会津武士らしくない」として会津から白い目で見られ、その上、あろうことか長州の世話になったなど、あってはならないことでした。
必ずや事実無根の証拠を見つけ出してみせる。私の白虎隊研究はこうして始まりました。情報を幅広く集めるために、白虎隊の会も結成しました。
その後、2006年(平成18年)11月に山口県美祢市小杉の楢崎屋敷跡に美祢市教育委員会が「楢崎屋敷跡説明板」を設置しまた。その説明文の中に、「会津藩士飯沼貞吉がここで養育された」と明記されていました。楢崎屋敷は、長州藩士楢崎豊資(とよすけ)の知行地であり、養子となった頼三が凱旋後、貞吉を連れてきて住まわせた。なお、この屋敷はその後、高見家の所有となったと記載されていました。
○高見家の伝承
貞吉の身の回りの世話をしたのは高見フサ(1855年生まれ)、貞吉の1歳年下で当時は楢崎屋敷に奉公していました。
高見家は女系だったので、後に養子を迎えフサはトシとサトという2人の娘を産んだのです。長女トシは1873年(明治6年)生まれで、後に養子を迎えて高見家を継ぎました。その長男高見広義氏は市会議員を勤め、次男高見三郎氏は佐藤内閣の文部大臣を勤めました。フサは90歳の長寿を全うし1928年(昭和3年)に没しました。
筆者は2006年(平成20年)広義氏の長女吉井綾子さん(当時84歳)にお会いしました。そのご長男吉井克也氏からは「高見家の口伝が現在も毎年本家に集まるたびに繰り返されている」との話を聞き、楢崎屋敷の見取り図も入手しました。克也氏は下関教育委員会で教育に関する仕事をされています。
8年前に、実際に楢崎屋敷跡を訪ね、高見家の伝承を聞き、吉井綾子さんにお会いしてみると作り話ではないように思えてきたのです。
「140年も前の話をなぜ、5世代にも亘って語り伝えてきたのですか?」
「それは高見家の誇りだからです」との回答が明快でした。
そして、楢崎頼三の玄孫に当たる松葉玲子さんにお会いしたのは5年前でした。
楢崎家では「死に損なったのではない。生かされたのだ」と言って貞吉を励ましたと伺いました。
一方、高見家では13歳の娘フサが貞吉の傷を癒すために、献身的な働きをしたことでしょう。物的証拠は未だ見つかっていませんが、飯沼家としてはこれで十分であると納得しました。
この地に記念碑を設立する話が持ち上がり、本日実現の運びになりました。
貞吉が楢崎屋敷に来たのは満14歳。2年後にはこの地を離れ上京しました。
こんな些細な出来事を記念する意義はどこにあるのでしょうか?
しかし、自刃に失敗し、生きる希望を失い死に場所を探していた貞吉が回生のきっかけをつかんだのは、まさにこの2年間でした。
飯沼家が今あるのもこの地での営みがあったお蔭であり、過去に遡って御礼申し上げます。
「恩愛の碑」には、過去の恩讐にこだわるのではなく、恩愛の絆によって
問題を克服し、未来を拓いていくという普遍的な願いが込められています。
この碑が、「人間愛と平和を希求する道しるべ」となれば素晴らしいと思います。◇◆◇