経験知識

経験知識 
                PNはる

十人十色、人はいろいろな環境、境遇の中で誕生し、最初の先生である親に物事のいろはを教わる。一番最初の固定観念とも言えるだろう。何が正しくて、何が間違っているのか、判断基準にせよ、人として、男として、女としてどう振舞っていくべきなのかも最初は親に教わる。果たしてそれは確かな情報なのだろうか。
社会が家庭という枠から超えたときに、必然的にいろいろな困難が立ちはだかり、いろいろな価値観があることを知る。しかし、いくつごろまでだろうか、親の常識は世界の常識である。自我とは全く別の領域でそれは働き続ける。この世界観が変わるきっかけとしては、読書、親密な人との交流から始まる。
親というものは「最も真剣に考え抜いて自覚をしてから成るべきだ」と精神分析論の一文にあったが、妊娠して、出産したら実際問題、そこから親だ。未熟であっても、賢人であってもである。未熟さと賢人ぶりはどこで変わるのか?自分に降りかかった問題をいくつクリアすることができたかではなかろうか?月並大抵の人がクリアできることがいわゆる常識だ。恋愛や恋ぐらいは、いや、結婚ぐらいでも大抵の人がする。そこに起こる諸問題、例えば、失恋、別れ、出会い、喜びや悲しみの中で人は継続の仕方や、傷んだ心の解消法を心得ている。人それぞれであってもだ。しかしこの先にある「愛」については言葉で交わされるほど理解はしていない。いや、する経験が少ないために理解しがたい領域になってしまっている。これなしでは人が語れないほど、生きてはいけないほど大事なことが難しい問題として取り残されていく。「好き」の最上級が「愛してる」こんな誤解が生まれる理由だ。
「子供を愛している。」素敵な言葉だが、言葉先行型の人が少なくない。(ただ「愛」を語れば哲学の領域にもなってしまうことではあるが。)他人ごとでは、「愛してるのに、そんなことするの?」「愛してるのにこんなことができないの?」「愛しすぎて過保護ね(親ばかね)」と思い、思われることはよくあり、日常的に交わされる会話の一部だ。
 未熟さと賢人ぶりはここでわかる。未熟な人間は答えの出せなかった問題に対して、答えとしてきたものでしか答えられない。「愛なんて未知数」という答えの経験知識からはその人の発する「愛」という響きに雲がかかっていて、子供が質問すると答えにも雲がかかっている。「愛」を感じて生きてこれた人、「愛」を知った人から発される「愛」という言葉には光がさし、また明確であるのでわかりやすい。
 何を経験し、そこから何を得て、何を失い、そこから知りえた事柄が一番大切なのだ。一喜一憂だけをして生きた人には「疑問は愚問、しかるべくしてなっただけのこと」と、諦めの答えを語ることしかできない。逃げた答えでは子供は納得できないのである。そう、先ほど述べた世界の常識が親ではなくなる理由の一つだ。親が出せなかった答えを、必死で探し求め、そこに答えを設けることができれば……老いては子に従うべし。
 何かの問題にぶつかり、まだ出ていない疑問、愚問は私にも腐るほどある。それに適当な理由をつけて親ぶったことをいうことも多々ある。ただ最終的にすべてに答えが出ることがあったらきっと私も賢者であろう。亀の甲より年の功
 一年に一度は、大人になっても大人になりたいと思う。
今年は一つあった。
「鶏口(けいこう)となるとも牛後(ぎゅうご)となるなかれ」
 これを私の親は逆説で教えた。
「どこに所属しているか、それが大事ではないか?」
 そう教わった私は受験の時にギリギリ上のクラスに受かった。正直つらかった。でも、立派に思われたいと勘違いをして生きてきた。最近正しいこのことわざを知り、その後長男がランクを落とした高校を選んだ。彼は今、成績優秀者。(扱い)自信に満ち溢れ、輝かしいその瞳。それを見たときに、一つ大人になったと思う。 
 子供に嘘、紛らわしいことを自分の経験を交えて経験知識で語るということは避けるべきだ。本当の経験知識は深みがなくてはいけないし、そこから得た真実の情報でなくてはならない。わからないことを分からないと答えられる大人でありたい。わからないことを、いくつになっても探求し続ける大人でありたい。一つでも多くの事柄を知り、それにあまり傾倒しすぎず、大きな視線で物事をとらえられる賢者になることが今の私の目標だ。