宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)
山中湖と女性による富士山登山
8月29日、30日と山中湖に幕末史研究会の有志で行ってきました。
残念なことに富士山にはお会いすることができませんでした。
お天気なのに雲に阻まれてしまいました。
でもひさしぶりの山中湖は静かで美しい佇まいでした。
宿泊したロッジは緑に囲まれていて、雨が降った後だったので目がさめるような緑の自然の中でした。
小鳥のさえずりや、セミの鳴き声、爽やかな風の音まで聞こえるようでした。
次の朝も夜中に雨が降ったので、緑がますます綺麗でした。
ここで一勉強。
講師は植松三十里さんです。
平安時代はたびたび噴火していたため富士山は恐れられていたそうです。
その後修験僧による登山が始まり、またお伊勢参りも始まりました。
この時期に登場したのが、現在でいうツアコンの御師です。
江戸時代から富士山信仰が庶民の中に芽生え、庶民が遠くから拝むという対象となりました。
富士山登山には費用がかさむことから、富士請が出来て講の代表者が富士山の登るというシステムになっていったようです。それを支えたのが御師です。
その講の人を連れて富士山登山の楽しさを伝えたそうです。
富士山登山には規則があり、女性は野焼きの二合目まで、男性は頂上まで登れたそうです。
庚申の御縁年に女性も四合五勺までOKになったそうです。
これは60年に一度なので、一生に一度ということになります。
小谷三志という御師がいて、彼は生涯で116回も富士登山をしたそうです。
高山たつという小谷三志の弟子が天保3年に21歳で富士山頂上を目指したそうです。
女性の登山は地元の農民から嫌われたそうで、閉山後に実行したとのこと。
登山は草鞋だったそうで、途中破けても凍り付いて履き替えることもできず、足袋も破けて裸足同然で下山したそうです。
その後たつはキリシタン大名・高山右近の子孫に嫁いで高山たつを名乗りました。
万延元年に外国人が富士山登山をして、慶應3年にはイギリス人女性が登山、明治5年に新政府が「女人結界廃止」を発布、それからは女性も富士山登山ができるようになったとのことです。