平和へのメッセージ-1

 

    平和へのメッセージ-1
              宗像善樹

 私には、先の大戦がもたらした悲劇について、少年時代の大切な思い出があります。
 私が小学生だった昭和二十五、六年頃の話です。
 私が住んでいた浦和市の家の近くの長屋に「たかお君」という名前の一歳年下の遊び友だちが住んでいました。
たかお君の家族構成は、胸の病気を患って臥しているお母さんと、たかお君が「おじさん」と呼んでいた四十歳くらいの男の人と、「たかお君」の三人でした。
男の人は、たかお君のことを「ぼうや、ぼうや」と呼んでいました。
 私は『不思議な家族だな』と内心思いながら、いつしか、たかお君を『ぼうや、ぼうや』と呼んで、一緒に遊ぶようになりました。他の遊び仲間も、私に習って、『ぼうや、ぼうや』と呼ぶようになりました。
ただ、私の両親を含め近所に住む大人たちは、常に『たかおちゃん、たかおちゃん』と呼んでいました。
 「おじさん」には左の腕がありませんでした。
そして、いつも足元が見えないくらい裾の長い褞袍(どてら)を着ていました。めったに家の外に出ず、部屋の奥に座って、長屋の前で遊ぶ私たちを眺めていました。まったく、働きにも行きません。
私は子供心に、『どうやってご飯を食べているのだろう』と思いました。
 そういう私の疑問とは関係なく、たかお君は明るく、素直な子供でした。回りの大人たちも、たかお君を大切に見守っていました。
 私を含め子供たちは、それぞれの母親から、
「たかおちゃんが家に帰るまでは、一緒に遊んであげなさい」
「たかおちゃんと一緒にいてあげなさい」
と言いつけられました。
私は、事情が分からないまま、親の言いつけ通りにしました。辺りが暗くなってから家に帰っても、親の小言はありませんでした。謎めいた親の態度でした。

私が大学生になってから、母親が謎を明かしてくれました。私がこの話を聞いた時には、たかお君は長屋から引っ越して、すでに浦和からいなくなっていました。
「たかおちゃんの本当のお父さんは、昭和二十年に、福岡県にあった太刀洗飛行場でアメリカ軍の空襲に遭って亡くなった。
おじさんという人は、亡くなったお父さんの親しい戦友で、空襲で左腕を失い、爆弾の破片で身体中に傷を負った。
たかおちゃんのお父さんが息を引き取るとき、戦友に『身寄りのない妻と子供が心残りだ』と訴えた。
戦友は『安心しろ。後は、俺にまかせろ』と答えた。その戦友は、たかお君のお父さんの一族が、東京大空襲で全員焼死したことを知っていた。
その戦友の実家は長野県にあり、戦友は裕福な農家の次男坊だった。