月別アーカイブ: 2021年8月

北軽井沢の白菜畑

 
宗像 信子

(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

北軽井沢の白菜畑

猛暑のさいたま市を抜け出して、北軽井沢に駆け足で行ってきました。
私も自粛生活疲れがたまっていましたが、娘が毎日の激務でヘロヘロになっていたので、リフレッシュしにいってきました。
1泊2日でしたが、最初の日は岩盤浴と温泉、次の日は温泉ですっかり癒されてきました。
たまには身体も癒してあげないと、とつくづく思いました。
温泉に向かう道々、ぬけるような青空と広い白菜畑がありました。
日本の夏の原風景ですよね。
私には田舎がないので、こういうところに行くとわくわくしてしまいます。

娘は娘ですっかり岩盤浴にはまってしまいました。
東京でも岩盤浴があるので、今後からそういうところに行ってみようと話し合っています。

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冨成博先生を想う

  宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

冨成博先生を想う

冨成博先生が令和3年6月27日に98歳で亡くなられました。
多分幕末史に興味がない方にはなじみのないお名前だと思います。
私の文章に時々出てくる幕末史研究会の顧問でいらっしゃった作家先生です。
長州下関のご出身であるため、特に長州の幕末についてのたくさんの著作があります。
幕末史研究会にご高齢であるにもかかわらず、ご出席していただきました。
いつも最前列のお席で姿勢をくずすことなく、講師の話を熱心にお聞きしてらしたお姿を懐かしく思い出します。
また懇親会でも静かにお酒を嗜みながら、若い会員と楽しそうにいろいろなことを話していらっしゃいました。
お住まいの町田市から吉祥寺までの行程は大変だったようです。
さすがにここ3年ばかりは参加されることができなくなられました。
ということで私たちが先生のお住まいにお邪魔したり、お嬢さまに車いすで連れてきていただいて、先生を「励ます会」を町田で開いたりしました。
先生のファンが若い方から私の世代まで20名ほど集まりました。
そしてその時がお目にかかった最後となりました。
その時もとても楽しそうに喜んでくださいました。
ここ一年療養入院をされていらしたのですが、このコロナ禍でお嬢様さえお見舞いに行かれないということでしたので、私たちもお見舞いに伺うことができませんでした。
寂しいお別れになってしまいましたが、私が歴史をますます好きになるきっかけを与えて下さいました先生に心から感謝いたしております。
冨成博先生のご冥福をお祈り申し上げます。<合掌>

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富士山登山と御師(おし)

  宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 富士山登山と御師(おし)

前回書いた御師について再度書かせていただきます。
富士山登山は江戸時代に大流行になりましたが、大変費用がかかることから村で講を組み、その代表者が富士山の登るというシステムになっていったようです。
講の代表者たちを連れて富士山登山を企画するのが御師でした。
御師は民間宗教家として関東各地で活動していました。
富士山登山を目的に勤勉に働くことを勧め、貯蓄に励むように指導もしていたようです。
山開きの時期に関東各地から富士山までを案内して、道中の楽しさを教えながらのツアーコンダクターだったようです。
御師は単に案内世話をするだけではなく、祈祷によって寺院や神社に参詣する人々と神仏の仲立ちをする宗教者でもありました。
富士山北面の吉田口には登山者を泊まらせる家がたくさん並んでいて、御師自身も自宅を構えていた人がいたそうです。
今回は御師宿坊「旧戸川家住宅」という家に行きました。
門構は立派で、奥行きがかなりあります。どんどん宿泊者が増えたので奥に増築していったそうです。
富士山を登拝する人を富士道者というそうです。
彼らが着ていた装束が展示されていました。
中門の中には「ヤーナ川(間の川)」という川が流れていて到着や出発の際には水垢離を行う禊場となっていたそうです。
いまでもそこそこの水のきれいな小川でした。
門の前にたつとそこには富士山がくっきりと見えるそうですが、残念ながら今回は雲に阻まれてその美しい姿をみることはできませんでした。

今回の旅行では富士山の姿を拝むことができなかったことが心残りでした。
次回は絶対に目の前の大きな富士山をみるという決意で解散となりました。


山中湖と女性による富士山登山


宗像 信子

(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

山中湖と女性による富士山登山

8月29日、30日と山中湖に幕末史研究会の有志で行ってきました。
残念なことに富士山にはお会いすることができませんでした。
お天気なのに雲に阻まれてしまいました。
でもひさしぶりの山中湖は静かで美しい佇まいでした。
宿泊したロッジは緑に囲まれていて、雨が降った後だったので目がさめるような緑の自然の中でした。
小鳥のさえずりや、セミの鳴き声、爽やかな風の音まで聞こえるようでした。
次の朝も夜中に雨が降ったので、緑がますます綺麗でした。

ここで一勉強。
講師は植松三十里さんです。
平安時代はたびたび噴火していたため富士山は恐れられていたそうです。
その後修験僧による登山が始まり、またお伊勢参りも始まりました。
この時期に登場したのが、現在でいうツアコンの御師です。
江戸時代から富士山信仰が庶民の中に芽生え、庶民が遠くから拝むという対象となりました。
富士山登山には費用がかさむことから、富士請が出来て講の代表者が富士山の登るというシステムになっていったようです。それを支えたのが御師です。
その講の人を連れて富士山登山の楽しさを伝えたそうです。
富士山登山には規則があり、女性は野焼きの二合目まで、男性は頂上まで登れたそうです。
庚申の御縁年に女性も四合五勺までOKになったそうです。
これは60年に一度なので、一生に一度ということになります。
小谷三志という御師がいて、彼は生涯で116回も富士登山をしたそうです。
高山たつという小谷三志の弟子が天保3年に21歳で富士山頂上を目指したそうです。
女性の登山は地元の農民から嫌われたそうで、閉山後に実行したとのこと。
登山は草鞋だったそうで、途中破けても凍り付いて履き替えることもできず、足袋も破けて裸足同然で下山したそうです。

その後たつはキリシタン大名・高山右近の子孫に嫁いで高山たつを名乗りました。
万延元年に外国人が富士山登山をして、慶應3年にはイギリス人女性が登山、明治5年に新政府が「女人結界廃止」を発布、それからは女性も富士山登山ができるようになったとのことです。