月別アーカイブ: 2020年12月

 

宗像 信子
(開運道芸術部顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

詩人「立原道造」

数年前、鎌倉に住んでいる幼馴染から別所沼って知っている?と聞かれたことがありました。そしてその中に「ヒヤシンスハウスという面白い建物があるので見に行って」と言われて早速見学に行ったことがありました。
それから何年振りかにヒヤシンスハウスをまた訪ねてみました。
今回はちょっとこの詩人に興味をもちましたので、詩集を買って読んでみました。
この詩人立原 道造(たちはら みちぞう)は1914年(大正3年)7月30日 年に生まれ、 1939年(昭和14年)3月29日に、24歳で急逝した詩人です。
また建築家としても足跡を残している詩人です。学歴は東京帝国大学工学部建築学科卒業している。東大在学中から卒業までに辰野賞を3年連続受賞という輝かしい才能を持っていた若者でした。
多分将来を担う建築家としても期待されていたんだと思います。
詩は旧制一高時代から堀辰雄に兄事し、大学入学後は堀辰雄の主宰する「四季」の編集同人になっていたそうです。そして中原中也賞を受賞しています。
文学的才能にも恵まれていたんですね。
立原は、軽井沢を愛し、建築とともに詩にもその文学的才能が期待されていましたが、澄んだ魂のまま「五月の風を ゼリーにして持ってきてください」の言葉を残して二十四歳という若さでこの世を去ったそうです。
なんて素敵な言葉でしょう!
1997年には東京大学弥生門前に「立原道造記念館」が、2004年には、さいたま市別所沼公園に、立原の設計した「ヒアシンスハウス」が建設され、彼の夢の一つが実現しています。

1934年(昭 9)東京帝国大学工学部建築学科入学、この夏、初めて軽井沢を訪問、以後、毎夏信濃追分や北軽井沢に滞在。
1937年(昭12)、詩集『萱草に寄す』『暁と夕の詩』を出版。
1939年(昭14)、2月第1回中原中也賞を受賞するも、同年3月24歳という若さで逝去。
2003年(平15)、詩集『立原道造』ハルキ文庫から出版されている。

その中から気に入った詩を抜粋してみます。

春が来たなら

春がきたなら 花が咲いたら
木のかげに小さな椅子に腰かけて
ずっと遠くを見てくらさう
そしてとしよりになるだろう
僕は何もかもわかったやうに
灰の色をした靄のしめりの向こうの方に
小さなやさしい笑顔を送らう
僕は余計な歌はもう歌はない
手をのばしたらそつと花に触れるだらう

春がきたなら ひとりだつたら

 


詩人の夢の別荘を実現! 別所沼公園「ヒアシンスハウス」

 宗像 信子
(開運道芸術部顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

詩人の夢の別荘を実現!
別所沼公園「ヒアシンスハウス」

浦和と西浦和の中間に、ランナーや釣り人、子連れファミリーや愛犬家など、世代を問わずみんなから愛されている別所沼公園があります。
敷地の約半分を占める別所沼を中心に、メタセコイヤの巨木が立ち並ぶ緑溢れる癒しスポットです。春は桜もきれいです。
今日はもう冬景色でした。
そんな別所沼公園の西側にあるのが「別荘 ヒアシンスハウス」です。
階段を三段上がり、玄関の取っ手を押すと、目の前に明るい日差しの降り注ぐ大きな窓がパッと飛び込んできます。
窓の向こうに広がるのは別所沼です。
左側に目を移すと書斎スペース、そして西側奥には小さなベッドとその上に小さな出窓があります。
室内は、すっきりとして無駄がなく、キッチンすらないので、住居というよりはちょっとした秘密基地みたいです。
ここは若き青年・詩人であり、建築家であった、「立原道造」が自分で自分のためだけの週末用住宅として設計した建物でした。
建築家であり詩人でもあった彼は、23歳の若さでこの世を去ったため、このヒアシンスハウス(風信子荘)と名付けられた別荘は構想のままで終わっていました。
本来なら幻で終わるはずだったヒアシンスハウスは、時を経て、彼や彼の作品を愛する地元の建築家や文芸家などの呼びかけにより引継がれ、2004年ついに完成したそうです。
ヒアシンスハウス内は、立原道造やヒアシンスハウスに関する資料が展示されていて、建築や文芸に触れることのできるちょっぴりアカデミックな雰囲気です。
訪れた人たちが自由に感想を残せるノートをめくると、遠くから訪れたご年配のファンの書き込みや、子どもの「カワイイおうちだね」という絵や感想がありました。
部屋をじっくり見てみると、彼の夢やこだわりがあちらこちらに散りばめられたモダンな作りです。
継承事業を行った方々は立原道造の残した手紙やスケッチをもとに議論を重ねて作図したそうです。
ヒアシンスハウスは小さいけれど、立原道造の夢とそれを支える人々の思いが詰まった、すがすがしく温かく、そしていつまでもたたずんでいたくなるような、そんなステキな場所です。
ボランティアのガイドの方々が皆さまのお越しをお待ちいたしております。
開館日 水曜・土曜・日曜


 

 


宗像 信子
(開運道芸術部顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

歌舞伎鑑賞に想う

  • 歌舞伎座 に対する画像結果

11月に歌舞伎座へ行ってきました。
このコロナ禍で観劇の方法が変わっていて、1部から4部までありそれぞれが50分くらいの演目でした。
ちょっとあまりにも短くて寂しかったです。
私たちは第3部の「一條大蔵卿・奥殿」でした。
一條大蔵卿を松本白鷗、常盤御前を中村魁春が演じました。
あらすじは
平家全盛の世のこと、源義朝の妻であった常盤御前は、平清盛の寵愛を受けた後、公家の一條大蔵卿の元に嫁いでいます。
一條大蔵卿は、阿呆と噂が高く、常盤御前も源氏再興を諦めているのではとかつての源氏の一人、吉岡鬼次郎と女房お京が、屋敷に忍び込んで、その本意を探ろうとします。
しかし、常盤御前は楊弓遊びにふけるばかり。お京の手引きで、常盤御前の部屋に入れた鬼次郎は、なぜ、敵方に嫁いでいるのか、源氏再興の心はないのかと詰め寄ります。

  • 「一條大蔵卿・奥殿」 に対する画像結果

れを聞き流す常盤御前に業を煮やし、弓で打ちつけます。
止めようとするお京、しかし、常盤御前は、忠臣、あっぱれと鬼次郎を褒めるのです。
実は楊弓の的の下には平清盛の姿絵、子どもたちの安否を気遣い、本心を隠し密かに源氏再興の時を待っていたというのです。
それを聞き、喜ぶ鬼次郎たち。
そこへ、大蔵卿の家臣である勘解由がやってきて、その事実を清盛に伝えると言います。
勘解由は、阿呆と言われる大蔵卿を裏切り、影で清盛と手を組んで家を乗っ取ろうとしていたのです。
そこに、颯爽と現れた大蔵卿の長刀により、勘解由は斬り捨てられます。
阿呆と見えた大蔵卿も、それは世を偲ぶための芝居だったと明かします。
そして、鬼次郎に源氏再興の願いとともに、重宝友切丸を与えます。
夜明けとともに、また阿呆に戻る大蔵卿、鬼次郎らはその想いに感謝し源氏再興を誓うのでした。
ざっとのあらすじですが、コロナで亡くなられた志村けんさんのバカ殿様のモデルだということで有名な物語です。
松本白鷗もすっかり年をとられて、昔の幸四郎時代からの時代差を感じました。
もっとも市川染五郎時代もあったんですよね。あこがれていました。
という私も年を取ったということですね<笑い>
常盤御前って本当にお綺麗だった絶世の美女というのかしら。
だって源氏の頭領・源義朝の妻で、夫亡き後は天下の平清盛の愛人になり、今度はお公家様の妻になるなんていう人生、なかなか普通の人にはできない人生ですね。
戦乱の世にはもっとすごい人生を歩んだ人もいるのでしょうね。
平和な世の中に生まれて良かったと思っていましたが、晩年になって今のような新型コロナの感染で考えてもいなかった生活があるとは思いもしなかった能天気な私です。

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