マリちゃん雲に乗る
宗像 善樹
(6)マリちゃん、階段を下る
わたしがまだ赤ちゃんだった頃は、いつも華ちゃんがわたしを抱っこして、2階へ連れて行ってくれました。1階へも、華ちゃんが抱いて下りてくれました。
わたしが二歳になったとき、パパが、華ちゃんを怒鳴りました。
「マリちゃんを、いつまでも甘やかすんじゃない」
華ちゃんが、反論してくれました。
「マリちゃんは体が小さいから、階段は無理だよ」
パパが、怒ります。
「甘やかすと、おまえみたいな人間になる」
それでも華ちゃんは、頑張ります。
「そういう、人が嫌がることばかり云っていると、寂しい老後が待ってるよ」
パパが、言い返します。
「それより、逆上がりができるようになりなさい」
華ちゃんは、逆上がりのことを言われるとむきになります。
「鉄棒のことは、関係ないでしょう」
わたしも、華ちゃんを応援します。
「そうだ、そうだ。ワン、ワン」
パパの、いつものお決まりのせりふが飛び出します。
「どうしようもない、やつらだ」
パパがわたしと華ちゃんを叱るときに、パパが最後に使う捨て台詞です。
華ちゃんは子供部屋のドアをばたんと閉めて、中に閉じこもってしまいます。わたしも慌てて、華ちゃんと一緒に部屋へ飛び込みました。
その日はそれで終わりましたが、これから先、わたしはパパにどうされるのかとても不安でした。
それから2週間後の日曜日。ママは、お友だちの家へ朝早くから遊びに行ってお留守。利絵ちゃんは新宿のマンション。華ちゃんはお友達と本屋さんへ出かけている。
パパは会社がお休みで、ひとり家の中。
わたしは朝から、胸騒ぎと不吉な予感をずっーと感じていました。
パパが、突然、わたしを抱いて家の階段を上がりました。全部で、13段。パパは、階段の一番上にわたしを座らせて、猫なで声で言いました。
「さー、マリちゃん、階段を下りてごらん。マリちゃんならできるよね」
以前、わたしは、華ちゃんから忠告されたことがありました。
「マリちゃん。パパの猫なで声には気をつけな。のらネコ親分の『茶寅ボス』より恐ろしいからね」
わたしは、思わずぞーっとして、後ずさりしました。
それでもパパは、猫なで声で何度も繰り返しました。
「マリちゃん、下りてごらん。1段ずつ下りればいいのだから」
わたしは、13段の階段の最上階から下を見て、恐怖で足がすくみました。パパが、わたしの背後から、わたしのおしりを軽く押しました。わたしは、背中を丸めて、いやいやをしました。
パパがわたしに、やさしく声をかけてくれました。
「こわいのかい、マリちゃん。だったら、パパが教えてあげるからね」
そうして、わたしの背中を少し持ち上げて、前足を1段下の階段へやさしく下ろしました。次に、わたしの腰を持ち上げて、後ろ足を同じ階にそっと下ろしました。そうやって、13段の階段ぜんぶを同じようなやり方で、わたしを1階まで下ろしてくれました。
「さあ、マリちゃん。もう一度、やってみよう」
パパが、わたしを抱いて、2階へ上がります。抱かれたわたしの体に、パパの心臓の鼓動が、どくん、どくん、と伝わってきました。
わたしは、思いました。
「パパは、わたしのために、一生懸命なのだ」
パパが、やさしい声で言いました。
「さぁ、マリちゃん。もう一度」
わたしは、ふたたび階段の上に座らされました。パパにおしりを押されましたが、やはり、いやいやをして腰を引きました。
パパがやさしく言いました。
「じゃあ、もう一回やってみようね」
パパが、同じことを何度も何度も繰りかえしてくれました。
パパが教えてくれました。
「なん回も、同じことを繰りかえしてやるのが上達のこつなんだ。最後まで頑張ることが大切だ」
繰りかえしているうちに、わたしはパパの手を借りずに下りられるようになってきました。高い所から下りるという恐怖心もなくなってきました。
最後にもう一回。階段のいちばん上に座りました。
「もう、パパに頼らなくても出来るだろう。自分でやってごらん」
パパが、かるくおしりを押しました。わたしは、自分で、階段を一段、一段、ゆっくり、ゆっくり、降りました。途中で立ち止まると恐怖で足がすくむので、夢中で一番下まで降りました。とうとう、自分一人で降りることができました。
「やる気になれば、やれるだろう」
パパが言いました。いつも華ちゃんが言われている言葉です。
前の日の土曜日に、華ちゃんは小学校の校庭でパパの特訓を受けて、どうにか鉄棒の逆上がりができるようになりました。家に帰ってきた華ちゃんが、わたしに明るい声で言いました。「マリちゃん、いっしょうけんめいにやってみたら、逆上がりができたよ」
今までの華ちゃんだったら、「やれたんじゃないよ。無理やりやらされたんだ」と言うはずでしたが、昨日の華ちゃんはそうは言いませんでした。
わたしも、華ちゃんの言うとおり、「やる気になれば、できるのだ」と、実感して思いました。
パパの教えのおかげで、華ちゃんもわたしも少し成長した気分になりました。
階段下りができるようになると、階段上りはとても簡単でした。
こうして、わたしは、階段の昇り降りを、自分ひとりでできるようになりました。
ママが、お友だちの家から帰ってきました。わたしは、何度も、何度も、ママの前で、階段の昇り降りを披露しました。
利絵ちゃんが帰ってきたときも、同じことをしました。
華ちゃんにもご披露。
みんなが目を丸くして、わたしを褒めてくれました。
ママは「やっぱり、マリちゃんは私の子ね。優秀だわ」と言い、利絵ちゃんは嬉しそうに微笑んで、わたしに頬ずりをしてくれました。華ちゃんは「すごいじゃん」と満足げでした。
わたしは、パパの顔をチラッと見上げました。パパは、「マリちゃん、よくやったね」というような顔をして、ビールを飲んで、赤い顔になっていました。
わたしは、ものすごく疲れたので、その日は早々とハウスに入って寝ました。
パパがママに言っている話が聞こえてきました。
「これで、マリちゃんのトイレの躾が終わり、ひとりで階段の昇り降りが出来るようになった。これからは、世間のどこへ出しても、マリちゃんが困ったり、恥をかいたり、他人に迷惑をかけることはないだろう。今日で、マリちゃんの教育は終わりにしよう」
ママが嬉しそうに答えました。
「よかったわ。かわいいマリちゃん」
わたしのことを大切に想ってくれているパパとママの気持ちが、しみじみ伝わってきた夜でした。