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明けましておめでとうございます。

会津探訪記-3

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

会津旅行の締めは鶴ヶ城です。

ここは幕末の戊辰戦争で有名なお城です。

藩主松平容保公が京都守護の役目について天皇のためにさんざん働き、役目を全うしたのに薩長軍から攻撃されたのです。

その悲劇は小説、テレビ、映画等で皆様ご存じの通りです。

ネットで調べると、

若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城である。地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と呼ばれるが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。文献では黒川城、または会津城とされることもある。国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。

若松城は梯郭式の平山城で、本丸
を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置されていた。城下町の南端に位置し、会津藩の政庁として会津の政治の中心であった。藩主の会津松平家は徳川将軍家と密接な関係にあり幕末には戊辰戦争の激戦地となった。現在、城跡は「鶴ヶ城公園」となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されている。天守閣は鉄筋コンクリートで外観復元され、内部は若松城天守閣郷土博物館となっている。

1868年慶応4年)、戊辰戦争の戦闘の一つである会津戦争にて、会津勢の立て篭もる若松城は新政府軍に包囲され砲撃を受けた。1か月の間持ちこたえたが、降伏し開城した。戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しかったが修復は行われず、しばらく放置された後、解体された。

と書かれています。

でも今はとてもきれいな公園の中に美しい天守閣が復元されていて、上まで登ることができ、会津の町を一望できました。

このお城に行けたことで、この日帰り旅行は無事終了しました。

とっても楽しかったです。


会津探訪記-2

会津探訪記-2

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

日新館の次には飯盛山にいきました。そこにはブラタモリでも紹介された栄螺(さざえ)堂もありました。
さざえ堂は次にように紹介されています。

会津栄螺堂は寛政8年(1796)福島県会津若松市の飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂です。正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」といいます。(重要文化財指定名称は「旧正宗寺三匝堂」)当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)というお寺があり、その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物です。かつてはその独特な2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていました。 また、上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、建築史上その特異な存在が認められ、平成8年に国重要文化財に指定されました。

 

さざえ堂に上って行く途中に戸の口堰洞窟がありました。ここを白虎隊の子供たちが通って飯盛山に登ったのかと思うと感無量でした。

そしてさざえ堂の奥に鶴ヶ城に向かった白虎隊十九士の墓がありました。

一人生き残った飯沼貞吉のお墓はそこから少し離れた場所にありました。
会津に来て見たかった場所の一つでした。
また飯盛山に行く途中に滝沢本陣があり、そこは白虎隊が出陣するときに藩主松平容保が見送りに来たところです。
会津若松は歴史的遺産がたくさんあり、また行きたい場所でした。