ポルトガルから北スペインへ-10(最終回)

このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

ポルトガルから北スペインへ-10(最終回)

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 安土桃山時代から江戸時代に至るまで,ポルトガルは南蛮渡来の貿易品だけでなく実に様々なものを日本に伝えました。例えば,16世紀末,豊臣秀吉はきらびやかな刺繍を施した深紅のビロードのマントやカッパなどの南蛮ファッションを好んで着用し,家臣にも勧めたと言われています。京都では,ポルトガル人が着ていた袴(カルサン)や下着(じゅばん)などが,庶民の間で大流行し,南蛮モードを安価で仕立てる店まで出現したそうです。また,当時の日本人が初めて見聞きする品物にはポルトガル語がそのまま使われ,徐々に日本人の暮らしになじんでいきました。今でも日常的に使われるボタン(botao),パン(pao),タバコ(tabaco),てんぷら(tempero),こんぺいとう(confeito)などは,ポルトガル語が転じて日本語になったものです。
しかし何故、豊臣秀吉や徳川家康がキリスト教布教やスペイン・ポルトガルの危険性を知り得たかと言うと、当時日本に勢力を伸ば始めた『イギリス』が警告してきたからです。 イギリスとしては、この期にヨーロッパで勢力が衰えつつ有るスペインとポルトガルを排除して、隙あらば日本を侵略しようとしていたのではないでしょうか。
ちなみに戦国時代に日本に来ていたスペインやポルトガルは、日本人を奴隷売買の商品にして豊臣秀吉の逆鱗を買ったことは周知の事実だし、不正に権益を得た金鉱山から、金を大量に持ち出していたこともポルトガルが日本との貿易から排除された理由だと思います。
1860年にまた日本との通商修好条約が調印され、またお付き合いが始まったわけです。実際にポルトガルに行ってみて、風土がとても日本と似ていると思いました。
海に囲まれて平地が少なく、坂、山が多かったです。またその景色はとても美しかったです。私が行った間は、気候は乾燥して暖かかったです。体力と時間があったらまた行きたい国でした。
記念に16世紀初頭より3百年かけて建設したポルトガル建築の最高峰といわれる世界遺産でもある白亜の大寺院・ジェロニモス修道院の写真を載せて、ワインと景色に恵まれたポルトガルから北スペインへの旅情記を閉じさせて頂きますていただきます。


最後まで旅行記にお付き合い頂きまして有難うございました。

宗像信子。