月別アーカイブ: 2018年10月

「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談~9&墨田川巡り

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

隅田川の水上バスに乗りました。

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

秋のさわやかな午後に、浅草から水上バスに乗りました。
いくつも橋の下をくぐり、進んで行くと聖路加国際病院が見えて、「年をとったらあそこで最後を迎えたいな」なんて思いながら、両岸の景色に見とれていました。
そこに何と前の日にお引越ししたとのニュースになっていた築地市場が見えてきました。
市場の中はもうガランとしていましたが、1台ターナーが走っているのが見えました。今回のお引越しのニュースでターナーという乗り物を知りました。
いつも道路から眺めていたのに、川からみると結構広くて立派だったんだなって思いました。
記念に写真を撮りました。

築地市場を過ぎたら、今度は江戸湾に面した浜離宮恩賜公園の船着き場に到着しました。
私は上陸はしませんでしたが、たくさんの観光客が乗降していました。
今から150年前に15代将軍徳川慶喜が会津藩藩主松平容保や弟の桑名藩藩主松平定敬らと共に、 大阪から開陽丸で逃げ帰って来ときに着いた船着き場でもあります。 その乗員の中には私の友人のご先祖、万延元年遣米使節の通詞見習いだった長野桂次郎もいました。イケメンだった桂次郎はアメリカに着くとたちまち注目され、ワシントンではトミーの愛称で親しまれ、使節団切っての人気者になり、トミーポルカという曲まで出来たそうです。そのトミーさんも、大阪から逃げ帰った将軍・慶喜のお供をしていて、この浜離宮の船着き場に着いています。それにしても、開運丸艦長の榎本武揚が知らない間に、将軍が出航させたというのですから、将軍に対する榎本館長の怒りも理解できます。しかも、将軍は逃亡寸前まで部下に徹底抗戦を命じていたのですから、指揮官の敵前逃亡は誰もが理解に苦しむものです。このような将軍弱腰な行動が、長く続いた徳川幕府の権威を大きく失墜させたことを考えると、戦いの勝敗以上に残念な出来事でした。
なお、この浜離宮は幕末まで、ずうーっと浜御殿として何百年も将軍家の別荘だったのに、海軍伝習所が浜御殿に移動してからは、優雅な御殿ではなく幕府崩壊へのきなくさい舞台にもなってしまったのです。
浜離宮を後に日の出桟橋に行き、そこで水上バスをおりました。
さわやかな約1時間半くらいの水上バスの旅でした。
たまには皆さまも乗船されて、昔は大川といわれた川の両岸を江戸時代を思い起こしながら、のんびり見学なさいませんか?

(注)村長の一言
上記コラムの筆者・宗像信子講師のご先祖は、この浜離宮に御浜奉行として屋敷をもち代々薬草の栽培などもしていました。福沢諭吉、勝海舟らを率いて咸臨丸提督として渡米した海軍奉行・木村摂津守喜毅(よしたけ・2千石)は宗像信子講師の祖祖父です。木村喜毅は、徳川幕府最後の勘定奉行として江戸城明け渡しにも立ち会っています。

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このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

白河戊辰150周年記念事業
~「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談~9

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

2015年8月、最大の激戦地稲荷山に戊辰戦争白河口の戦い記念碑「戊辰の碑」を建立除幕。
97日間も続いた奥羽の要衝白河を巡っての争奪戦で、取り残された東軍の屍は地元民によって埋葬され、新政府軍により墓碑が作られた戦死者とともに等しく弔われてきました。
「戊辰の碑」は、東西を問わず同じ戦争の犠牲者として、現在に至るまで香華を手向け続けてきた、地元の人々の「仁」の心が反映されています。
そして、全国からも多くの「仁」の心が寄せられました。
感動するシーンや心温まるエピソードはいくつもありますが、除幕式には、ここ「開運道」の主宰者花見正樹さんのお姿もありました。花見さんは寄付をされたばかりか、テレビ局をお連れ下さり、ご自身もラジオで実況中継をして下さる形で、「仁」の心を示して下さったのです。

2016年10月に山口県美祢市にて行われた「恩愛の碑」除幕式にいたる経緯は『楢崎屋敷物語』の章で書きましたが、「白虎隊の会」設立時からのご縁が白河との交流にも繋がっています。

2017年10月、「戊辰役東軍殉難者慰霊祭」が開催されました。
この慰霊祭の主宰者で、150冊以上もの新選組関連本を世に送り出し、熱烈な新選組ファンと一大ブームの創出者となった元新人物往来社社長の大出俊幸さんから白河で開催したい、懇親会は是非とも黄檗宗 龍興寺(通称山の寺)でとのご希望がありました。大出さんはこのお寺で行われてきた手作りの田舎料理による懇親会の素晴らしさを何度か体験されていたからです。
因みにこの手作り懇親会は住職の手打ちそばが振る舞われ、料理は全て地元主婦たちの手作り、飲み放題・食べ放題・時間無制限で超安い会費なのですから、そりゃあ人気に決まっているのです!

少し内幕をいいますと、お料理から宴の後の後片付けまでの全てがボランティアですから、その協力者を確保するのはなかなか難しいこともあります。
でも、白河に来て下さる方々の顔を思い浮かべると、感謝の気持ちと喜んでいただきたい想いが募り、おもてなしの心が伝わるこの形をなんとか実現しようと頑張るのです。
さて、このお寺には会津藩の軍事奉行・海老名衛門の墓と慰霊碑と「44人同穴」と刻まれた会津兵の合葬墓があります。
住職の快諾で、場所の移動もなく慰霊祭と直会ができるまさに東軍の慰霊祭として相応しい会場となりました。
勝海舟の子孫・高山みな子さんが東軍の御魂に捧げる祭文を奉読。白河藩第22代当主阿部正靖さんの講演後、皆さんお待ちかねの手作り懇親会がくり広げられ、戊辰150年の前段として大きく貢献できました。
大出さんは「土方歳三忌」「近藤勇供養祭(勇忌)」のほか、白河藩阿部家の家臣沖田勝次郎の嫡男・総司の慰霊祭「沖田総司忌」を、彼が生まれた阿部家下屋敷近くの「専称寺」で毎年執り行っています。

つづく

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このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

ナイアガラ瀑布!

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)
今年の夏はとても暑い日が続き、うんざりしてしまいました。
せめて旅行では涼を伴うところに行きたいと急遽思い立ち、カナダを選びました。
それも一度は実際に見てみたいと思っていたナイアガラの滝に行きました。
今回も娘と二人旅でした。エアーカナダに乗り、トロントまで直行便でした。空港からはバスに乗り時約1間半でナイアガラに到着しました。
ホテルに荷物を置き、早速ナイアガラの滝を見物に行きました。

途中カナダのビールで夕食をとり、坂をおりて10分くらいで滝にたどり着きました。
目の前で見る滝のなんと大きいこと、そして美しいのです。
夜でしたので、左のアメリカ滝は緑、右側のカナダ滝は青とライトアップされていてそれはそれは綺麗で雄大な景色でした。
また15分間でしたが、花火があがり、日本で花火大会に行っていませんでしたので、夏の風物詩をカナダで体験しました。

滝については皆様ご存じですので説明はいたしませんが、実物を目の前にするとその大きさ、水の量、勢いには圧倒されました。
テレビや写真では何度もみ見ていましたが、やはりそこに実際に立ってみるとその存在感はすごいです。
翌日は船に乗って滝までクルージングです。
カナダ側から乗った私たちは赤のビニールカッパを着て赤い集団です。
反対側のアメリカからの船は乗船者が青のビニールカッパを着ていて、赤の集団の船と青の集団の船が次々と滝のそばまでいきました。
右舷に乗ると水しぶきが浴びられるということだったので、早速右舷に行きました。
本当にカナダ滝のそばまで行ったら、滝のような(けっしてシャレではございませんが)水しぶきをたくさん浴びました。

水はそんなには冷たくありませんでしたが、とっても気持ちがよかったです。マイナスイオンも浴び、肺の中が洗われるようでした。
私たちは滝へのクルーズができたので、滝の裏側への観光入場はありませんでした。これは冬場の観光のようです。
この滝のそばには橋があり、その橋の真ん中がアメリカとカナダの国境で出入国検査をしているという珍しい橋でした。
まえからあこがれていた滝にお目にかかれて幸せな2日間でした。

 


甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演 余談~8

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

白河戊辰150周年記念事業
~「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談~8

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

2014年9月、歴史仲間が率いる「白虎隊の会」長崎支部が白河・会津を訪問。市内の史跡を案内し、友人にとっては既に馴染みになった「山の寺」での手作り懇親会でおもてなしをさせていただきました。
友人は私からのイベント案内や自身の企画で、これまで10回も長崎から馳せ参じてくれている得がたく有難い同士です。

翌10月には「会津・白河慰霊の旅」として、吉井克也さんを中心に活動する「白虎隊の会」下関支部のご一行がお出でになり、長州藩士の眠る長寿院はじめ戊辰ゆかりの場所にご案内。
戊辰の時、東山道先鋒として長州藩の諸隊を率いたのは中隊長の楢崎頼三です。諸隊士たちは白河の民衆と盆踊りを楽しみ、帰郷後にも懐かしんでそれぞれの地元で踊りました。
150年の時を経たいま山口県内の80カ所以上で踊られつづけ、「白河踊り」と呼ばれているのは奇跡としか言い様がありません。楢崎は白河で右手に銃弾をうけ負傷しましたが、会津戦争後、自刃白虎隊士でただ一人蘇生した飯沼貞吉を自分の所領地に連れ帰り養育しました。
このとき楢崎から貞吉の世話を頼まれたのが、吉井さんの曾祖母に当たる高見フサでした。
この旅は、会津の長州に対する長恨が語られ続けて現代に至ることへの、ある種の警戒心を持った旅であり長年の懸案だったということです。

遡って、2013年2月には「白河踊り調査団」が萩市を訪問しています。調査団の一員だった私は白河踊りの研究家中原正男さんとお目にかかり、その研究成果をご教示いただき顕彰してきました。その一つとして歴史春秋社刊のムック本『白河』に中原さんの研究成果を寄稿していただくなどしています。

同年4月、元萩市医師会長で「長州と会津の友好を考える会」代表の山本貞壽さんが野村萩市長の親書を携え「八重の桜・復興支援ツアー」と題し、20数名の一団を率いられました。
念願の吉田松陰が東北遊歴の折りに宿泊した旅籠(現旅館)を見学し、鈴木白河市長も列席した交流会では「白河踊り」をともに踊り盛り上がりました。前述の「調査団」が接待メンバーとしてお迎えしたのは言うまでもありません。
山本氏はこのとき差し上げた冊子『官軍戦没兵士の墓遍路』(金子誠三著)に強い関心を示されました。
山口県内で是非配本したいと切望されましたが、既に残部は無く急遽500冊を復刻。この500冊はすべて山口県下に配られました。
「白河踊り』の研究家中原正男氏とともに白河市と萩市の交流の下地を作られた山本氏の活動は、8月、「萩市民号」での公式訪問という形に結実し、市長を含む40名もの萩市民が来白されました。
9月、さらに山本氏は自身が所属する萩医師会の仲間たちをお連れ下さり、長州兵墓のある長寿院に再び参拝しました。

つづく


甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演 余談~7

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

白河戊辰150周年記念事業
~「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談~7

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

司馬先生に関連する事項はまだ続きます。。。
2014年8月26日、BS朝日で『にほん風景物語 司馬遼太郎と会津・白河のみち〜「街道をゆく」を歩く〜』が放映されました。これに先駆けて、現地情報などで少しばかり協力させていただいたお陰で私は撮影時に居合わせることが出来ました。
このときの旅人は作家の山本一力さん。
忘れられない光景があります。
知らない方ばかりのところに駆けつけ場違いな感じがして戸惑っていたとき、野菜の詰まった大きなレジ袋を下げて一人の女性が現れました。
近くの産直で購入されたものでした。
福島県は、原発事故による風評被害のまっただ中で、福島の野菜を避ける風潮が地元住民にもあった頃です。
その女性の姿を見たとき、私は感情がこみ上げてきて思わず声をかけました。「白河で野菜を買って下さったのですか?有難うございます!」
そして、しばらくお野菜や料理の話など主婦同士のような会話をするうち、「もしかしたら山本に何かお話があったのでは?」と。

そう、一力先生の奥様だったのです。すっかりスタッフの一人だと思い込んでいた私は、もう本当にビックリしました。
さすがは作家の奥様、観察眼があるのですね。もっとも当時私は「戊辰戦争白河口の戦い」の啓蒙に携わる「桜プロジェクト」のスタッフでしたから、少しでも白河の特異な状況を知っていただけたらとパンフレットや資料を携えていたのでした。
撮影中の一力さんに代わって奥様がiPadに記録して下さったのは長州に伝わる「白河踊り」でした。
そして、数ヶ月後、奥様から思わぬご連絡が。
もっとお話を聞きたいのでまた白河に行きたいとのことでした。
ご夫婦で取材に来て下さったその日、ひとりで応対することに危惧を感じた私の傍には博識な白河の重鎮、人生の達人である金子誠三先生がいらっしゃいました。
お二人は金子先生のユーモアを含む会話に魅了され、すっかりファンになられて私の目論見は大成功。
そして、私たちもご夫妻の飾らず控えめなお人柄に心底感激しました。
さらに、ちかく萩市で講演予定があるとお聞きし、「白河踊り」の研究家中原正男さんと講演会の会場で面談していただけるおまけ付きとなりました。
その後白河図書館での講演会をへて、つい先日にも白河にお出でいただく機会があり、改めて素晴らしいお人柄を実感できました。嬉しいご縁がつづいています。

つづく