このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。
隅田川の水上バスに乗りました。
宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)
秋のさわやかな午後に、浅草から水上バスに乗りました。
いくつも橋の下をくぐり、進んで行くと聖路加国際病院が見えて、「年をとったらあそこで最後を迎えたいな」なんて思いながら、両岸の景色に見とれていました。
そこに何と前の日にお引越ししたとのニュースになっていた築地市場が見えてきました。
市場の中はもうガランとしていましたが、1台ターナーが走っているのが見えました。今回のお引越しのニュースでターナーという乗り物を知りました。
いつも道路から眺めていたのに、川からみると結構広くて立派だったんだなって思いました。
記念に写真を撮りました。
築地市場を過ぎたら、今度は江戸湾に面した浜離宮恩賜公園の船着き場に到着しました。
私は上陸はしませんでしたが、たくさんの観光客が乗降していました。
今から150年前に15代将軍徳川慶喜が会津藩藩主松平容保や弟の桑名藩藩主松平定敬らと共に、 大阪から開陽丸で逃げ帰って来ときに着いた船着き場でもあります。 その乗員の中には私の友人のご先祖、万延元年遣米使節の通詞見習いだった長野桂次郎もいました。イケメンだった桂次郎はアメリカに着くとたちまち注目され、ワシントンではトミーの愛称で親しまれ、使節団切っての人気者になり、トミーポルカという曲まで出来たそうです。そのトミーさんも、大阪から逃げ帰った将軍・慶喜のお供をしていて、この浜離宮の船着き場に着いています。それにしても、開運丸艦長の榎本武揚が知らない間に、将軍が出航させたというのですから、将軍に対する榎本館長の怒りも理解できます。しかも、将軍は逃亡寸前まで部下に徹底抗戦を命じていたのですから、指揮官の敵前逃亡は誰もが理解に苦しむものです。このような将軍弱腰な行動が、長く続いた徳川幕府の権威を大きく失墜させたことを考えると、戦いの勝敗以上に残念な出来事でした。
なお、この浜離宮は幕末まで、ずうーっと浜御殿として何百年も将軍家の別荘だったのに、海軍伝習所が浜御殿に移動してからは、優雅な御殿ではなく幕府崩壊へのきなくさい舞台にもなってしまったのです。
浜離宮を後に日の出桟橋に行き、そこで水上バスをおりました。
さわやかな約1時間半くらいの水上バスの旅でした。
たまには皆さまも乗船されて、昔は大川といわれた川の両岸を江戸時代を思い起こしながら、のんびり見学なさいませんか?
(注)村長の一言
上記コラムの筆者・宗像信子講師のご先祖は、この浜離宮に御浜奉行として屋敷をもち代々薬草の栽培などもしていました。福沢諭吉、勝海舟らを率いて咸臨丸提督として渡米した海軍奉行・木村摂津守喜毅(よしたけ・2千石)は宗像信子講師の祖祖父です。木村喜毅は、徳川幕府最後の勘定奉行として江戸城明け渡しにも立ち会っています。
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白河戊辰150周年記念事業
~「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談~9
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)
2015年8月、最大の激戦地稲荷山に戊辰戦争白河口の戦い記念碑「戊辰の碑」を建立除幕。
97日間も続いた奥羽の要衝白河を巡っての争奪戦で、取り残された東軍の屍は地元民によって埋葬され、新政府軍により墓碑が作られた戦死者とともに等しく弔われてきました。
「戊辰の碑」は、東西を問わず同じ戦争の犠牲者として、現在に至るまで香華を手向け続けてきた、地元の人々の「仁」の心が反映されています。
そして、全国からも多くの「仁」の心が寄せられました。
感動するシーンや心温まるエピソードはいくつもありますが、除幕式には、ここ「開運道」の主宰者花見正樹さんのお姿もありました。花見さんは寄付をされたばかりか、テレビ局をお連れ下さり、ご自身もラジオで実況中継をして下さる形で、「仁」の心を示して下さったのです。
2016年10月に山口県美祢市にて行われた「恩愛の碑」除幕式にいたる経緯は『楢崎屋敷物語』の章で書きましたが、「白虎隊の会」設立時からのご縁が白河との交流にも繋がっています。
2017年10月、「戊辰役東軍殉難者慰霊祭」が開催されました。
この慰霊祭の主宰者で、150冊以上もの新選組関連本を世に送り出し、熱烈な新選組ファンと一大ブームの創出者となった元新人物往来社社長の大出俊幸さんから白河で開催したい、懇親会は是非とも黄檗宗 龍興寺(通称山の寺)でとのご希望がありました。大出さんはこのお寺で行われてきた手作りの田舎料理による懇親会の素晴らしさを何度か体験されていたからです。
因みにこの手作り懇親会は住職の手打ちそばが振る舞われ、料理は全て地元主婦たちの手作り、飲み放題・食べ放題・時間無制限で超安い会費なのですから、そりゃあ人気に決まっているのです!
少し内幕をいいますと、お料理から宴の後の後片付けまでの全てがボランティアですから、その協力者を確保するのはなかなか難しいこともあります。
でも、白河に来て下さる方々の顔を思い浮かべると、感謝の気持ちと喜んでいただきたい想いが募り、おもてなしの心が伝わるこの形をなんとか実現しようと頑張るのです。
さて、このお寺には会津藩の軍事奉行・海老名衛門の墓と慰霊碑と「44人同穴」と刻まれた会津兵の合葬墓があります。
住職の快諾で、場所の移動もなく慰霊祭と直会ができるまさに東軍の慰霊祭として相応しい会場となりました。
勝海舟の子孫・高山みな子さんが東軍の御魂に捧げる祭文を奉読。白河藩第22代当主阿部正靖さんの講演後、皆さんお待ちかねの手作り懇親会がくり広げられ、戊辰150年の前段として大きく貢献できました。
大出さんは「土方歳三忌」「近藤勇供養祭(勇忌)」のほか、白河藩阿部家の家臣沖田勝次郎の嫡男・総司の慰霊祭「沖田総司忌」を、彼が生まれた阿部家下屋敷近くの「専称寺」で毎年執り行っています。
つづく
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ナイアガラ瀑布!
宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)
今年の夏はとても暑い日が続き、うんざりしてしまいました。
せめて旅行では涼を伴うところに行きたいと急遽思い立ち、カナダを選びました。
それも一度は実際に見てみたいと思っていたナイアガラの滝に行きました。
今回も娘と二人旅でした。エアーカナダに乗り、トロントまで直行便でした。空港からはバスに乗り時約1間半でナイアガラに到着しました。
ホテルに荷物を置き、早速ナイアガラの滝を見物に行きました。
途中カナダのビールで夕食をとり、坂をおりて10分くらいで滝にたどり着きました。
目の前で見る滝のなんと大きいこと、そして美しいのです。
夜でしたので、左のアメリカ滝は緑、右側のカナダ滝は青とライトアップされていてそれはそれは綺麗で雄大な景色でした。
また15分間でしたが、花火があがり、日本で花火大会に行っていませんでしたので、夏の風物詩をカナダで体験しました。
滝については皆様ご存じですので説明はいたしませんが、実物を目の前にするとその大きさ、水の量、勢いには圧倒されました。
テレビや写真では何度もみ見ていましたが、やはりそこに実際に立ってみるとその存在感はすごいです。
翌日は船に乗って滝までクルージングです。
カナダ側から乗った私たちは赤のビニールカッパを着て赤い集団です。
反対側のアメリカからの船は乗船者が青のビニールカッパを着ていて、赤の集団の船と青の集団の船が次々と滝のそばまでいきました。
右舷に乗ると水しぶきが浴びられるということだったので、早速右舷に行きました。
本当にカナダ滝のそばまで行ったら、滝のような(けっしてシャレではございませんが)水しぶきをたくさん浴びました。
水はそんなには冷たくありませんでしたが、とっても気持ちがよかったです。マイナスイオンも浴び、肺の中が洗われるようでした。
私たちは滝へのクルーズができたので、滝の裏側への観光入場はありませんでした。これは冬場の観光のようです。
この滝のそばには橋があり、その橋の真ん中がアメリカとカナダの国境で出入国検査をしているという珍しい橋でした。
まえからあこがれていた滝にお目にかかれて幸せな2日間でした。