月別アーカイブ: 2018年6月

軽井沢散策ー2


このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

軽井沢散策ー2

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

それからは軽井沢千住博美術館、西武美術館(以前は池袋西武デパートの中にあった美術館)を見学し、後は石の教会と星野遊学堂という今結婚式をあげたいという希望が多く人気のスポットを見学しました。

石の教会は内村鑑三記念館で、無教会、非建築ということで有名な教会です。
内村鑑三については有名な人物なのでここでは説明を省略いたします。
石の教会のホームページによれば、「自然の中にいて、やがて自然の一部になったかのような何物にもしばられない自由、内村鑑三の無教会思想は何も規制することのない生きた建築、オーガニック建築によって蘇り、この地軽井沢で今も息づいている。」という説明です。
この教会ができたときは、建築界ではかなりのセンセーショナルになったそうです。

この日は結婚式が行われていたので、残念ながら中に入ることはできませんでしたが、外からは眺めることは許可されました。
実は私の従姉妹の二女が9月にこの教会で結婚式をあげることなっていますので、その時に内部をちゃんと見学することにします。
またその後にご報告できればと思います。
石の教会のすぐそばには星野遊学堂という教会もあります。
牧師さんは両方で6人いらっしゃって、当番で「石の教会」と軽井沢高原教会「星野遊学堂」とで結婚式をあげているそうです。

でも軽井沢高原は日本とは思いないようなすてきな高原でした。
こうして軽井沢の観光を終えてまたバスに乗り帰路につき、1泊2日のコンサートツアーが終わりました。


軽井沢散策ー1

このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

軽井沢散策ー1

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

先週の続きです。
翌朝、長野県佐久郡小海町のホテル小海リゾートシティ・リエックスホテルを後に、軽井沢に向けて出発しました。
まず追分宿に行き街道を歩きました。この街道は「寛永12年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、ここを往来する諸侯のため、宿内には本陣、脇本陣、問屋、宿などを設置し、宿との西入口、この辺に枡形の道と土手(高さ役2.5メートル)を築いて宿内の警備取締りをした。」との案内板が出ていました。

途中に堀辰雄の愛した石仏(歯痛地蔵)というのがあったので、歯が痛いといっている友人とお参りをしました。
なんとも素朴なお地蔵様でした。

つづく・・・


佐久小海町フィンランドビレッジへの旅

このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

佐久小海町フィンランドビレッジへの旅

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

5月のさわやかな季節のなか、佐久小海町フィンランドビレッジに行ってきました。
とてもお天気が良く、東京駅から貸切バスに乗った瞬間から、どれだけ楽しい旅行になるかとわくわくしました。
あまり渋滞にあうこともなく、順調に長野県に入りました。
奥村土牛美術館に行きましたが、とてもすてきな和風のご自宅が記念館になっていました。
作品は代表的な絵がたくさんあり、100歳を越えた画家の一生を垣間見られました。
ちょっと不便な場所ですが一見の価値はある記念館でした。
お庭にもたくさんの花がきれいに手入れされていて、絵だけではなくお庭も楽しみました。
次に今フィンランドビレッジと言われている松原湖周辺に行きました。
景色をみてフィンランド村と名付けられた理由がわかりました。
周りには中央アルプスや南アルプスの山々が見え、松原湖というのは小さい湖の集合体だそうが、山脈、湖、畑のコラボが確かにフィンランドという感じです。

その中にヤルビーホールという町営のコンサートホールがあります。
多分、町おこしで建てたのでしょうが、シュタインウエイ&ソンのグランドピアノがあり、こんな山奥にとは思いましたが立派なホールでした。
その中で近藤沙織さんという桐朋大学出身の実力派のピアニストが下記の曲を演奏いたしました。

クロード・ドビッシー(1862-1918): 2つのアラベスク、仮面、版画
ジャン・シベリウス(1865-1957): フロレスタン
セリム・パルムグレン(1878-1951): 太陽と雲 作品102
フィンランド村にふさわしい曲目で、北欧のクラシックを堪能いたしました。
(注)写真は上から
・佐久小海町フインランドビレッジ、小海町音楽堂
・さながら、フインランドの景色
・フロレスタン演奏

演奏終了後、宿泊予定のホテル「小海リゾートシティ・リエックス」に行きました。
この日はこれで終わりました。
次の日の話は次回のお楽しみに・・・


新政府軍・白河役陣亡諸士碑-3


このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当します。

慰霊碑を読む〝碑のメッセージ〟

新政府軍・白河役陣亡諸士碑-3
捐躬報国(えんきゅうほうこく)
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

前回の・・・銘シテ曰ク】に続く碑文です。
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有尉佳城 白河之原 煌々烈士
爰留其魂 遺勲銘石 山岳倶存
【尉(うつ)タル佳城、白河ノ原ニアリ。
煌々(こうこう)タル烈士、爰(ここ)ニ其ノ魂ヲ留ム。
遺勲石ニ銘シ、山岳倶ニ存ス】

明治二十五年壬辰十一月
従四位勲四等文学博士 重野安繹撰
辨理公使従四位子爵 秋元興朝書
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これを要約しますと、
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「官軍」が奥羽ニ侵攻したとき、奥羽諸藩は軍事同盟を結び、幕府敗残兵も混じえ、天皇の軍隊に対し、「奥羽ノ咽吭(いんこう=のど)」白河城に拠って抵抗した。
官軍は、初戦では敗退したが、五月一日には、「会津・仙台・二本松・棚倉等ノ兵六百八十余人ヲ斃シ」、城を占領した。
白河進駐後、逆襲する数千人の「賊=奥羽同盟軍」を、六百余人の官軍が退けた。以来、官軍は兵力を強化し、反攻してくる賊軍と数十回交戦し、すべて撃退した。
六月二十四日には、「薩・長・土・大垣・佐土原・館林・黒羽ノ七藩ノ兵千余人」が、白河より出撃し、棚倉城を陥した。我軍はさらに進み、二本松と会津を討ち、賊軍すべてを掃討した。
この戦争で、官軍のうち「屍ヲ白河長寿院ニ?(うず)ムル者、凡ソ一百十五人。墓上唯其(ただその)氏名ヲ刻ス」。
二十五年を経た今、「当時ヲ追懐スルニ、恍トシテ世ヲ隔ツル如シ」。百年の後には、ここの「艱難の遺跡」も消滅してしまうであろう。ゆえに、七藩の旧藩主と、あの戦争に関わった者たちが、「躬ヲ損テ、国ニ報」いた「白河役陣亡諸士」の勲を不朽にすべく、これをたてる。
「煌々(こうこう)タル烈士、爰(ここ)ニ其ノ魂ヲ留ム」。

以上で碑文シリーズは一休みです。
ご愛読有り難うございました。安司弘子。