新政府軍・白河役陣亡諸士碑-1

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

慰霊碑を読む〝碑のメッセージ〟
新政府軍・白河役陣亡諸士碑-1
捐躬報国(えんきゅうほうこく)
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

 戊辰の「慰霊碑を読む」シリーズは今回を最終とします。
これまで読んでくださった方、よくぞお付き合い下さいました。
心から感謝申し上げます。
慰霊碑の前に佇み想いを向けて下さることに繋がったら何よりに存じます。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

白河の戦に参戦、あるいは会津・二本松方面などに出兵するために白河に駐屯し通過した「官軍=政府軍」諸藩は、三十数藩に及びました。今回は、官軍側の慰霊碑を読んでみました。
この碑が建つのは、白河城下の旧奥州街道沿い本町の「長寿院」です。この寺は町の人々から「官軍寺」と呼ばれていました。
入口には「明治二年」(1869)「慶応戊辰殉国者墳墓」と彫られた石柱。そこから進むと右手に盛り土された特別な一角があり、その壇上に白河周辺で戦没した官軍兵士を弔い讃えた「白河役陣亡諸士碑」が建っています。
篆額(てんがく)の「捐躬(えんきゅう)報国」は、官軍の最高長官だった有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王の文字。あの皇妹和宮の婚約者として知られていますが、この時は陸軍大将でした。
撰文は、重野安繹(やすつぐ)。旧薩摩藩士。薩英戦争の際には、談判委員として英軍と交渉。史学者。東京帝大教授。
書は秋元興朝(おきとも)。上州館林藩最後の藩主秋元礼朝(ひろとも)の養嗣子。外交官。子爵。

碑陰には、発起人二十二人の、氏名や爵位が列刻されています。
白河戦線に出兵した官軍諸藩の旧藩主家  毛利・島津公爵、山内侯爵、戸田・島津伯爵、大関子爵・・・や、白河での若き指揮官たちだった、明治政府の錚々たる高位顕官―川村純義・大山巌・板垣退助伯爵らです。
除幕式には、陸軍の軍楽隊も来て、政府の重鎮となっていた大山大将等、戊辰の役に関係した指揮官らも参列し、頗る盛大でした。
参道を挟んで向かい側は官軍墓地です。
ここには、長州藩三十名、土佐藩十八名、大垣藩十三名、佐土原藩十九人、館林藩十二人、薩摩藩二十七人、合わせて百十九人が埋葬されました。ただし、薩兵墓群は大正四年(1915)に白河城(小峰城)跡の鎮護神山丘陵に「戊辰薩藩戰死者墓」をつくり改葬しましたので、現状の被葬者は九十二人です。

次回は碑文を載せ、次々回は読み下し文に挑戦させて頂きます。