このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。
慰霊碑を読む〝碑のメッセージ〟
新政府軍・白河役陣亡諸士碑-2
捐躬報国(えんきゅうほうこく)
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)
白河役陣亡諸士碑
捐躬報国 陸軍大将大勲位熾仁親王篆額
戊辰中興之元年春六師東征首収江戸城 徳川氏恭順謝罪而余賊尚東叡山不降乃撃殲之
【戊辰中興ノ元年春、六師(天皇の軍隊)東征シテ、首(はじ)メニ江戸城ヲ収(おさ)ム。徳川氏、恭順謝罪シテ、余賊、ナオ東叡山に拠リテ降ラズ。乃(すなわ)チ、之ヲ撃殲(げきせん)ス】
先是分軍転戦両総常野之間進徇奥羽
【之ヨリ先、軍ヲ分カチテ両総(上総/下総)・常野(常陸/下野)ノ間ヲ転戦シ、進ンデ奥羽ニ徇(めぐ)ル】
奥羽諸藩合従方命会津仙台実為之盟主 幕府逋竄之徒又往投之 共抗王師於白河城
【奥羽諸藩、合従(がっしょう)シテ命ニ方(さから)イ、会津・仙台実ニ之ガ盟主為(た)リ。幕府逋竄(ほざん)ノ徒、マタ往キテ之ニ投ジ、共ニ白河城ニ於テ王師ニ抗ス】
城当奥羽咽吭地勢険要賊極力拒守 官軍進戦不利退次芦野
【城ハ奥羽ノ咽吭(いんこう)ニ当タリ、地勢険要ニシテ賊極力拒守ス。官軍進ミ戦イテ利アラズ、退キテ芦野ニ次(やど)ス】
五月朔縦兵自三道往襲之鋒芒甚鋭 斃会津仙台二本松棚倉等兵六百八十余人 賊不能克棄城遁
【五月朔(さく=一日)、兵ヲ縦(はなち)テ、三道ヨリ往キテ之ヲ襲ウ。鋒芒(ほうぼう)甚ダ鋭ク、会津・仙台・二本松・棚倉等ノ兵六百八十余人ヲ斃ス。賊、克(か)ツ能ワズシテ城ヲ棄テ遁ル】
官軍乃入為根據畜鋭議進取 賊察我寡兵大挙来囲衆数千人 而官軍不過六百余人 備兵白坂駅使賊勿断我軍後
【官軍、乃(すなわ)チ入リテ根據トナシ、鋭ヲ蓄エ進取ヲ議ス。賊、我ガ寡兵ナルヲ察シ、大挙シテ来タリ囲ム衆数千人。而(しか)シテ官軍六百余人ニ過ギズ。兵ヲ白坂駅ニ備エ、賊ヲシテ我軍ノ後ヲ絶ツコトナカラシム】
爾来砲戦累昼夜大小数十合毎戦輒有利 既而官軍日益至賊勢日愈蹙退保其城砦
【爾来、砲戦昼夜ヲ累(かさ)ネ、大小数十合、戦ウ毎ニ輒(すなわ)チ利アリ。既ニシテ官軍日ニ益(ま)シ、賊勢日ニ愈(いよいよ)蹙(きわま)リ、退イテ其ノ城砦ヲ保ツ】
六月官軍別隊由海路達平潟攻平城抜之将以応白河軍也 二十四日発薩長土大垣佐土原館林黒羽七藩兵千余人 撃賊於関山乗勢下棚倉城
【六月、官軍ノ別隊海路ヨリ平潟ニ達シ、平城ヲ攻メテ之ヲ抜キ、将ニ以テ白河軍ニ応ゼントス。二十四日発シテ、薩・長・土・大垣・佐土原・館林・黒羽ノ七藩ノ兵千余人、賊ヲ関山ニ撃チ、勢イニ乗ジテ棚倉城ヲ下ス】
於是海陸諸軍悉会於二本松城下倶攻抜其城 乃分為二軍一由天狗角觝山一由猿嵓并保成本道 而三別遣一軍由三度己屋進共討会津 竟能得奏蕩平之功焉
【ココニ於テ、海陸ノ諸軍悉(ことごと)ク二本松城下ニ会シ、倶ニ攻メテ其ノ城ヲ抜ク。乃チ分チテ二軍トナシ、一ツハ天狗角觝山(すもうとりやま)ヨリ、一ツハ猿嵓(さるいわ=勝岩)并(ならび)ニ保成(ぼなり=母成)本道ヨリ。三ツハ別ニ一軍ヲ遣ワシ、三度己屋(さんどごや=三斗小屋)ヨリ進ミテ、共ニ会津ヲ討ツ。ツイニ能(よ)ク蕩平(とうへい)ノ功ヲ奏スルヲ得タリ】
是役也前後甚亡甚多而?屍白河長寿院者凡一百十五人 墓上惟刻其姓名未及録其事跡 於是七藩旧主及当時関其役者慨然会財以図其不朽徴文於余
【コノ役タルヤ、前後陣亡甚ダ多シ。白河長寿院ニ屍ヲ?(うず)ムル者凡ソ一百十五人。墓上タダ其ノ姓名ヲ刻シ、未ダ其ノ事跡ヲ録スルニ及バズ。ココニ於テ七藩ノ旧主、及ビ当時其ノ役ニ関ワリシ者、慨然財ヲ会ワセ、以テ其ノ不朽ヲ図リ、文ヲ余ニ徴ス】
嗚呼戊辰之変天下治乱之所判而勤王諸藩率先?厲諸士亦皆捐躬報国以賛襄鴻業 此雖国家隆運之所致而其烈亦可謂卓偉非常哉
【アア、戊辰ノ変ハ天下治乱ノ判カルルトコロ。而シテ勤王ノ諸藩率先?厲(てきれい=たちあがること)シ、諸士モマタ、皆躬ヲ捐テ国ニ報イ、以テ鴻業(こうぎょう)ヲ賛襄(さんじょう=助力し成功させる)ス。コレ国家隆運ノ致ス所ト雖(いえど)モ、シカモ其ノ烈タルモマタ卓偉非常ト謂ウ可キカ】
今二十五年矣 海内又安庶民謳歌追懐当時恍如隔世而百年之後物換星移艱難遺跡或将帰乎湮滅 此是挙之所以不可已也 銘曰 【今二十五年、海内(かいだい)マタ安ク庶民謳歌ス。当時ヲ追懐スルニ恍トシテ隔世ノ如シ。而シテ百年ノ後、物換(かわ)リ星移リテ、艱難(かんなん)ノ遺跡或イハ将ニ湮滅(いんめつ)に帰センカ。コレコノ挙ノ已(や)ム可カラザル所以(ゆえん)ナリ。銘シテ曰ク】
つづく