高田藩「忠干碑」-2

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

慰霊碑を読む〝碑のメッセージ

高田藩「忠干碑」-2

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、開運道顧問)

忠干碑

前回は原文を載せましたが今回は訳文を載せます。
ルビがつけられないので工夫したつもりですがどうでしょうか。
なお、碑陰には戦死者十六名の指名が列刻されています。

死節諸士碑  従二位子爵榎本武揚篆額

磐城国西白河郡釜子邨(むら)ハ、世(よよ)越後高田藩主榊原氏ノ支邑(しゆう)タリ。士卒五十余戸ヲ遣ワシテ戍(まも)ル。
【ここ釜子村は、代々越後高田藩の分領の村で、陣屋には本藩から五十余戸の藩士と家族が派遣されてきていた】
明治戊辰ノ乱ニ奥羽同盟シ、四隣騒擾(しりんそうじょう)、道路梗塞シテ、本藩ノ声息絶ユ。
【戊辰には、奥羽諸藩が反政府軍事同盟をむすんで内乱となり、高田との交通も妨げられ、本藩の動向の情報も絶たれた】
既ニシテ、西軍来討シテ、勢甚ダ急ナリ。諸士胥(あい)議シテ曰ク、「吾藩徳川氏ノ恩ニ浴スルコト久シ。義ハ其ノ盛衰ヲ倶(とも)ニセザル可カラズ」ト。
【西軍は早くも白河に侵攻。切迫した事態の中で、陣屋兵は東西両軍のいずれにつくかを決めなければならない。陣屋では合議した結果、「徳川家のご恩に報いるために幕府と運命を共にする」と決断した】
即チ 相率ヒテ東軍ニ興シ、各地ニ奮戦ス。百折屈セズ。死者十六人。以テ其ノ忠勇義烈ヲ見ル可シ。
【以後、同盟軍とともに各地を転戦。相次ぐ敗戦にもくじけない、勇敢な義士だった】
今茲(ここ)ニ庚寅(こういん)二十三回忌ノ辰(トキ)ニ値リ、故旧胥謀(しょぼう)シテ、其ノ邑(むら)ノ長伝寺ニ碑ヲ建テ、其ノ忠節ヲ表サント欲シ、来リテ余ニ文ヲ請フ。
【今年、明治二十三年(1890)庚寅二十三回忌にあたり、旧(ふる)い仲間らが相談して、戦没兵士の忠節をたたえる碑を、長伝寺に建てることになり、私(山川浩)が撰文を請われた】
嗚呼、余モ亦当時、東軍の敗将為リ。出テハ万死ニ一生ヲ得テ今ニ至ル。
敢テ為ス所有ル無ク、諸士ニ愧ズルコト多シ。
【私も敗残の将でありながら、なすところなく今なお生き延びているのを、英霊に恥じる】
乃チ今昔ヲ俯仰シテ其ノ概略ヲ叙ベ、之ニ係リテ銘シテ曰ク。
「生キテ主恩ニ報ヒ 死シテ馬革ニ裏ム。厥ノ節何ゾ烈シク 厥ノ心何ゾ赤キヤ」千歳摩セズ、深ク貞石ニ刻ム。
【今昔を想い、主君の恩義に報い戦死した勇士の壮烈な赤き心を、この石に刻み、永久に伝える】

明治二十三年歳庚寅十一月上澣ニ在リ

会津 山川浩 撰
高田 中根聞 書