このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。
碑を読む 〝碑のメッセージ〟 銷魂碑
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)
前の回では、会津藩墓所の碑文を原文のまま掲載しました。ですので、今回はその漢文を書き下しました。正面上部の題字「銷魂碑」は松平容保の篆書です。両側面には戦死者おおよそ三百人の名前が刻まれおり、撰文は南摩綱紀です。
原文の銘はすべて漢字(漢文)ですので、今回は句読点のほか、カナを多くするなど試みました。何度も書き直したのですが、勉強中ですので間違いがあればご教示ください。
明治元年正月。我ガ旧藩主松平容保公、徳川内大臣ニ従ヒテ大阪城ニ在リ。内大臣マサニ朝ニ入ラントシ、我ガ藩士ヲシテ先駆セシム。
事齟齬ニ出デ、伏見ノ戦有リ。公、内大臣ニ従ヒテ江戸ニ帰リ、列藩ニ托シテ謝表ヲタテマツリ、命ヲ会津ニテ待ツ。
奥羽諸藩モマタ連署シテ朝廷ニ請フ。報ハレズ。大兵来タリ伐ツ。
ココニ於テ諸藩憤リテ曰ク、「コレ姦臣壅蔽ノ致ス所。ケダシ聖旨ニ出ズルニ非ザルヤ。兵ヲ挙ゲコレヲ拒マン」ト。
白河城ハ奥羽ノ咽喉ニ当タリ、必ズ争ノ地トナル。我ガ兵先ズコレニ拠ル。
閏四月二十五日。薩摩・長門・忍・大垣ノ兵来リ攻メ、相戦ウコト半日。我ガ兵大勝ス。四藩ノ兵退イテ芦野ニ保ツ。
五月朔、マタ、白坂・原方・畑諸道及ビ山林間道ヨリ来攻シ、前敗ヲ雪ガント欲ス。ソノ鋒甚ダ鋭シ。
我ガ将西郷頼母・横山主税各兵数百ヲ率ヒ、仙台・棚倉兵ト共ニコレニ当タル。
卯ヨリ午ニ至リ奮戦数十百合。火飛ビ電撃チ、山崩レ地裂ク。我ガ兵、弾尽キ刀折レ、三百余人コレニ死ス。
仙台・棚倉兵モマタ多ク死傷シ、城遂ニ陥ル。棚倉・平・二本松ノ諸城モマタ相継イデ守リヲ失ウ。コレヨリ東兵フルワズ。
後チ数月、上杉氏、使ヒヲ遣ハシ告ゲテ曰ク、「東征兵ハ聖旨ニ出デ且ツソノ請フ所ヲユルサン」ト。ココニ於イテ「ホコ」ヲ投ジ、出テ降ル。
朝廷スナハチ、一視同仁ノ詔ヲ下シ、藩ハ再造ノ恩ヲ荷ナイ、臣ハ骨肉ノ賜ヲ蒙ル。
ソノ鋒鏑ニ死スル者ハ冤ナルモ、冤鬼泣雨、遊魂迷煙シテ、独リ沛然ノ余沢ニ浴スルヲ得ズ。アア何ゾソノ不幸ナルヤ。然リト雖モ一死モテ主ニ報ジ、臣節ココニ尽シテ名声朽チズ。コレニ比ベ生キテ聞ナキハ、ソノ幸不幸果タシテ如何ゾヤ。
地ニフルク碑アリ。「戦死墓」ノ三字ヲ止刻ス。ソノ何人タルカヲ知ルベカラズ。コノゴロ有志ノ士アイ議シ、醵金シテ更ニソノウシロニ豊碑ヲ建テ、綱紀ヲシテコレニ銘セシム。
アア、綱紀コノ諸士トカツテ同ジク生キ、同ジク死スル能ワズ。今又朝官ノアトニ列シ、アニ能ク心ニ愧ジルコト無カランヤ。スレバ何ゾコレニ銘スルニ忍バン。然リト雖モ銘スレバ則チ顕ハレ、銘セザレバ則チ晦シ。思フニコレニ銘スレバ、或ヒハ死者ニ酬ヒルニ足ランカ。スナワチ涙ヲ揮ヒテコレニ銘シテ曰フ。
危ヲ見テ命ヲ致シ、臣節ヲ全ウス。イヤシクモ主ニ忠ナラザレバ、何ゾ天子ニ忠ナラン。マサニ向フトコロ異ナルト雖モ烈士ト謂フベシ。
千載ノ下、頑奮懦起セシム。
明治十七年五月
東京大学教授 正七位 南摩綱紀撰
正四位 松平容保 篆額
成瀬温書