このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。
慰霊碑を読む〝碑のメッセージ(1)
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)
百日におよぶ白河戦争での死者は1,000名を超えました。
白河には、討死した兵士の墓標や、戦死者に捧げた藩ごとの慰霊碑が、ここかしこに建っています。
その慰霊碑には、それぞれの立場から痛切な哀悼文が綴られております。
原文は漢字だけで読みにくいので、今回は、藩ごとの慰霊碑の前にたたずみ、後世への伝言が刻まれた碑文を、自己流に句読点などを補い書き下してみました。
鎮英魂
従五位 子爵 阿部正功 篆額
明治元年(1868)三月。棚倉藩主阿部正静、奥羽鎮撫総督ノ命ヲ奉ジ、出師シテ将(まさ)ニ庄内ヲ討タントス。
総督更ニ令シ、転ジテ仙台等ノ兵ト与(とも)ニ会津ヲ討タント、即チ戦イニ赴ク。
会津既(すで)ニ降リ、奥羽諸藩白石ニ会同シ、連署シテ状ヲ上(たてまつ)り、会津ノ罪ノ赦(ゆる)シヲ請ウ。
朝廷聴カズ。尚(なお)ソノ罪ヲ数エテ、兵ヲ征討ニ発ス。
是(ここ)ニ於テ諸藩憤慨シテ、以謂(おもえら)ク。
「伏見ノ事ハ過誤ヨリ出デ、モトヨリ深キ罪ニ足ラズ。況(いわん)ヤ既ニ悔悟シ、且ツ我ガ諸藩ノ悃誠(こんせい)哀レミヲ請ウモ、無有不聴ノ理ニテ、兵ヲ征討ニ発ス。コレ奸臣壅蔽(ようへい)ノ然ラシムル所ニシテ、決シテ聖旨ニヨルニ非ズ。事ココニ至リテ豈(あに)坐視スベケンヤ。遂ニ兵ヲ挙ゲコレヲ拒マン」ト。
棚倉藩老臣阿部内膳ヲシテ、将ニ一大隊ヲ仙台・会津等ノ兵ニ与(くみ)セシメ、白川城ニ拠ル。
五月朔。官軍城ヲ囲ミ攻メ、兵コレヲ禦(ふせ)グ。奮激戦闘、晨(あした)ヨリ午(うま)ニ至リ、雷轟電撃(らいごうでんげき)、殺傷相当タリ。
而(しこう)シテ衆寡敵セズ、守兵弾尽キ刀折レ、城遂ニ陥イル。乃(すなわ)チ金山・釜子等ノ地ニ退キ守リ、転戦スルコト数十百合ニ延(の)ブ。