このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。
慰霊碑を読む〝碑のメッセージ(3)
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)
銷魂碑
市内松並。激戦地稲荷山裾の会津藩墓所。
西軍の遺体は戦時中から長寿院などに埋葬されましたが、敗退した東軍の屍は遺棄されました。
「戦死墓」は戦後すぐに地域住民が建てた墓碑ですが、記録に〈官軍は人夫に集めさせ稲荷山から七番町へと超える坂の上へ六尺(百九十センチ)四方くらいの穴を三個と、現在戦死墓のある所へ穴二個を掘り、一穴へ百人内外を埋めさせ(略)土を盛って墓塚を作った。現在の墓石を建設するときに、坂の上の穴から骨を移して埋葬した〉とあります。
現在の墓石とは「銷魂碑」のこと。
今回は先ず碑文を原文のまま記してみようと思います。
私は漢文は全くダメなのですが、それでも、眺めていると、辞書を引きたくなるような興味深い文字や、馴染みの地名や人物、それなりに読み下すことが出来る箇所・・・等々に出会い、なかなか面白いのです。さらに目を凝らしていると読めなくとも何となく意味が通じるから不思議。
『漢文語彙辞典』も面白いです!
銷魂碑
明治元年正月我旧藩主松平容保公従徳川内大臣在大阪城 内大臣将入朝使我藩士先駆事出齟齬有伏見之戦 公従内大臣帰江戸托列藩上謝表而待命於会津 奥羽諸藩亦連署為請於朝廷 不報大兵来伐 於是諸藩憤日是姦臣壅蔽之所致盖非出聖旨也 挙兵拒之
白河城当奥羽之咽喉為主客必争之地 我兵先拠之 閏四月二十五日薩摩長門忍大垣之兵来攻相戦半日 我兵大勝四藩之兵退保芦野 五月朔復自白坂原方畑諸道及山林間道来攻欲以雪前敗其鋒甚鋭 我将西郷頼母横山主税各率兵数百与仙台棚倉兵共当之 自卯至午奮戦数十百合火飛電撃山崩地裂 而我兵弾尽刀折三百余人死之 仙台棚倉兵亦多死傷城遂陥 棚倉平二本松諸城亦相継失守自是東兵不振 後数月上杉氏遣使告曰東征兵出聖旨且聴其所請 於是投戈出降 朝廷乃下一視同仁之詔藩荷再造之恩臣蒙肉骨之賜 而其死鋒鏑者冤鬼泣雨遊魂迷煙独不得浴沛然之余沢 吁嗟何其不幸也 雖然一死報主臣節茲尽名声不朽 比之生而無聞其幸不幸果如何哉
地旧有碑止刻戦死墓三字不可知其為何人 項有志之士胥議醵金更建豊碑其後使綱紀之銘 吁嗟綱紀与此諸士嘗同生而不能同死 今又列朝官之後豈能無愧於心焉者何忍銘之 雖然銘則顕不銘則晦 銘之或足以酬死者乃揮涙銘之曰
見危致命臣節全矣 苟不忠主何忠天子 方向雖異可謂烈士 千載之下頑奮懦起
明治十七年五月
東京大学教授 正七位 南摩綱紀撰
正四位 松平容保 篆額
成瀬温書