月別アーカイブ: 2018年1月

ウィーンオペラ座

このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。


ウィーンオペラ座
宗像信子

先週に続いてウィーン旅行のご報告です。
ウィーンにはたった3日間の滞在でした。
4泊5日ではなく、4泊3日だったんです。
この3日間を無駄にすることなく、毎日18000歩は歩きました。
この間のことはまたご報告しますが、ウィーン少年合唱団に次いでぜひともしたかったことは、オペラ座でオペラを鑑賞することでした。
こちらは幸いにも日本でチケットを予約することができていたので、安心はしていました。ただどんな席かはいってみなくてはわかりませんでした。
今回はただ見に行くのではなく、オペラ座に正装していくことも考えていました。
やはり日本人は着物でしょう!
ということで娘と二人分の着物を持って行きました。
何と着物だけで10㎏、カバンの重かったこと。
というわけで写真のように二人で着物を着て、いざオペラ座へ。
席は想像した以上に良い お席で、それにも感激しました。
回りはあまりイブニングドレスの方はいませんでしたが、男性はタキシードでお洒落な
女性をエスコートしていました。外人男性は本当にタキシード姿が決まっています。
あら~私もエスコートしていただきたかったわ!〈笑〉
オペラは「トスカ」でした。
幸い座席には日本語の字幕が出る端末があり、助かりました。
ですからストーリーはわかっていたのですが、歌詞がわからないから心配していたのですがばっちりでした。
心ゆくまでウィーンでオペラを堪能しました。
帰りはザッハトルテというチョキレートケーキの発祥のカフェに寄って、甘いケーキが
苦手な二人はビールを飲んで、ウィーンのカフェの雰囲気を楽しみました。回りにもオペラ帰りの人が多かったので、高揚した余韻も十分楽しみました。
最後の夜もこうして終わりました。
ホテルはオペラ座から徒歩5分でしたので、最後のお散歩をしながら帰りました。


ウィーン少年合唱団  宗像信子


このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)が担当します。

ウィーン少年合唱団
その美しい歌声は心に響きました。

宗像 信子

新年早々本当に駆け足でウィーンに行ってきました。
そして長年の夢を実現するために日曜日の朝、ウィーン少年合唱団が歌う教会(WienerHofmusikkapelle)へ娘と二人で行きました。
日本ではチケットを購入できなかったので、当日券を求めて早くに教会に行きましたが、残念ながら当日券も手に入らず、立ち見席で入場できる列に並びました。
開始の20分前にキャンセルが出たが購入しないかと教会の職員が立見の列に声をかけてくれました。
私たちは6番目だったのですが、幸いにも前に並んだ方々が購入しなかったのでに私たち回ってきました。
夢かと思った瞬間でしたが、すぐに「買います」と答え、お金を支払って入場しました。
指定席は4階でしたが、なんとそれは少年たちが歌う席の真横でした。
また、リハーサルの最中で、すぐに彼らの歌を聴くことができました。
ソロの男の子はアジア系の少年でしたが、もちろんとってもきれいな歌声でした。
ミサが始まる数分前まで何度も何度も繰り返し練習していました。
その練習の様子を写真にとることができました。
ミサが始まりましたが、私たちは4階からなので、神父さんたちの頭のてっぺんしかみられませんが、美しい儀式で荘厳な時間でした。
ミサの最中に少年団の合唱が聞け、その美しい歌声に心が洗われるようでした。
これが私が55年前から一度ライブで聞きたいと願っていた歌声だと思ったら何だか涙がでてきました。
新年のミサだったので、プログラムより30分も長い一時間半も続きました。
そしてミサが終わり、神父さまたちご一行が退場した直後、少年たち全員がさっとミサを行っていた檀上に整列し、3曲歌ってくれました。
それは4階からは残念ながら良くはみられませんでしたが、美しい歌声は教会全体に響き渡りました。
全部が終了し、参列者たちがお帰りになった後、じっくりその由緒ある教会の内部を見学できました。
それから教会の外に出たら、そこには少年たちの何人かがいて、話をすることができました。
ぜひ日本に来てくださいと声をかけたら、一人の少年の母親が日本に行くことが決まっていますと答えてくれました。
娘は日本の風景の絵葉書を持っていたので、少年たちに渡したところとっても喜んでくれました。
今度は日本で聴きますねと言って、彼らと別れました。
そんなときもとっても可愛い少年たちでした。
長年の夢がかなったウィーンの日曜日の朝でした。


楢崎屋敷物語-2 安司弘子


このコーナーは
安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)が担当します。

白虎隊

「戊辰・白河戦争」ものがたり

楢崎屋敷物語(高見フサ口伝)~白虎隊士と長州藩士の秘話~2

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

以下に、「恩愛の碑」建立に至る経緯を、白虎隊士飯沼貞吉の孫・飯沼一元氏の文章により紹介します。

◇◆◇今から19年前、「飯沼貞吉が長州の美祢市楢崎屋敷で養育されていた」という怪文書が届きました。
悪い冗談は止めて欲しい。飯盛山で自刃に失敗した貞吉は、「生き返るような切腹の仕方は会津武士らしくない」として会津から白い目で見られ、その上、あろうことか長州の世話になったなど、あってはならないことでした。
必ずや事実無根の証拠を見つけ出してみせる。私の白虎隊研究はこうして始まりました。情報を幅広く集めるために、白虎隊の会も結成しました。
その後、2006年(平成18年)11月に山口県美祢市小杉の楢崎屋敷跡に美祢市教育委員会が「楢崎屋敷跡説明板」を設置しまた。その説明文の中に、「会津藩士飯沼貞吉がここで養育された」と明記されていました。楢崎屋敷は、長州藩士楢崎豊資(とよすけ)の知行地であり、養子となった頼三が凱旋後、貞吉を連れてきて住まわせた。なお、この屋敷はその後、高見家の所有となったと記載されていました。

○高見家の伝承
貞吉の身の回りの世話をしたのは高見フサ(1855年生まれ)、貞吉の1歳年下で当時は楢崎屋敷に奉公していました。
高見家は女系だったので、後に養子を迎えフサはトシとサトという2人の娘を産んだのです。長女トシは1873年(明治6年)生まれで、後に養子を迎えて高見家を継ぎました。その長男高見広義氏は市会議員を勤め、次男高見三郎氏は佐藤内閣の文部大臣を勤めました。フサは90歳の長寿を全うし1928年(昭和3年)に没しました。

筆者は2006年(平成20年)広義氏の長女吉井綾子さん(当時84歳)にお会いしました。そのご長男吉井克也氏からは「高見家の口伝が現在も毎年本家に集まるたびに繰り返されている」との話を聞き、楢崎屋敷の見取り図も入手しました。克也氏は下関教育委員会で教育に関する仕事をされています。
8年前に、実際に楢崎屋敷跡を訪ね、高見家の伝承を聞き、吉井綾子さんにお会いしてみると作り話ではないように思えてきたのです。
「140年も前の話をなぜ、5世代にも亘って語り伝えてきたのですか?」
「それは高見家の誇りだからです」との回答が明快でした。

そして、楢崎頼三の玄孫に当たる松葉玲子さんにお会いしたのは5年前でした。
楢崎家では「死に損なったのではない。生かされたのだ」と言って貞吉を励ましたと伺いました。
一方、高見家では13歳の娘フサが貞吉の傷を癒すために、献身的な働きをしたことでしょう。物的証拠は未だ見つかっていませんが、飯沼家としてはこれで十分であると納得しました。

この地に記念碑を設立する話が持ち上がり、本日実現の運びになりました。
貞吉が楢崎屋敷に来たのは満14歳。2年後にはこの地を離れ上京しました。
こんな些細な出来事を記念する意義はどこにあるのでしょうか?
しかし、自刃に失敗し、生きる希望を失い死に場所を探していた貞吉が回生のきっかけをつかんだのは、まさにこの2年間でした。
飯沼家が今あるのもこの地での営みがあったお蔭であり、過去に遡って御礼申し上げます。
「恩愛の碑」には、過去の恩讐にこだわるのではなく、恩愛の絆によって
問題を克服し、未来を拓いていくという普遍的な願いが込められています。
この碑が、「人間愛と平和を希求する道しるべ」となれば素晴らしいと思います。◇◆◇


楢崎屋敷物語  安司弘子


このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)が担当します。

皆様、明けましておめでとうございます。
安司弘子です。

昨年4月から訥々と書かせていただいている、〝白河アピール〟の拙文。
今年もお付き合いいただけますよう宜しくお願い申し上げます。

内戦で対立した幕末期。立場によって「明治維新と戊辰戦争」と呼び名が違いますが、あれから150年が経った節目の今年は各地でそれぞれの冠を付けた記念行事が進行しています。
そこで、新年の第1稿は、白河特化ではなく・・・
薩長の遺恨の歴史を乗り越えて建立された、「恩愛の碑」のきっかけになった口伝とその経緯をを紹介します。

楢崎屋敷物語(高見フサ口伝)~白虎隊士と長州藩士の秘話~

安司 弘子

◇◆◇小雪の今にも舞いそうなある日、楢崎の殿様が戦争が終わって戻って来られるということで、小杉中の者たちが総出で集落の一か所に集まって出迎えたげな。
しばらくすると、遥かふもとの嘉木峠(かぎだお)の方から、軍服に身を包み馬に乗った殿さまとその一行の姿が見えてきた。
だんだんと近づいてくる一行をよく見ると、殿さまの馬の轡を持っている者は、村人たちが初めて見る少年じゃったげな。
後で分かったことじゃが、その少年は会津の白虎隊士で、飯盛山で仲間と一緒に自刃したが、知り合いの者に助けられて、ただ一人生き残った『貞さあ』という名の少年じゃった。
その日の夜は殿さまの凱旋のお祝いということで、殿さまのお屋敷に村の者たちが集まって、飲めや歌えの酒盛りになった。宴が進む中で、末席に座っていた「貞さあ」に、一人の村人が話しかけた。「お前、生きちょってよかったなあ。まあ、一杯飲め」この言葉を聞いた「貞さあ」は、さっと顔色を変え、土間に飛び降り、今にも自害しようとする気色じゃったそうな。
ただ事ではない様子に駆け寄った楢崎の殿様は、「貞さあ」を別室に呼び、次のように諭されたそうじゃ。《「貞」、よう聞けよ。お前も知っちょると思うが、今我が国の周りにゃ黒船がうじょうじょしており、この国を領土にせんと、虎視眈々とねろうちょるでよ。会津・長州ちゅうて、日本人同士がいつまでも喧嘩をしちょる時じぁないでよ。今からは皆が心を一つにして、この日本を豊かで強い国にせんにゃあいけんのじゃ。そして、その中心はお前たち日本の若者じゃ。命を粗末にしてはいかん。ええか「貞」、しっかり勉強せい!そして、日本の役に立つ人間になれ!お前の学費はわしが出す。「貞」安心して勉強せえよ!・・・・》
殿さまの話をじっと聞いていた「貞さあ」は次の日から殿さまの書斎を借りて、生まれ変わったように勉強に励んだそうじゃ。
(文責:高見フサ子孫・白虎隊の会下関支部長 吉井克也)◇◆◇

つづく


白河市観光スポット1・小峰城と名物の桜

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)が担当します。

安司弘子です。
明けましておめでとうございます。
新年の挨拶が二度めになりますが、何度でもお正月は目出度いものです。
本年も、東北の表玄関白河市を宜しくお願いします。
今日は、白河市内の観光スポットについて触れてみます。
白河の観光スポットといえば一番は小峰城・・・まず異論はないでしょう。

1、白河小峰城

 小峰城は、かつてこの地を治めた結城氏が築いた城郭です。
奥州を代表する名城と呼ばれた城でもあり、東北南部エリアでは人気の高い観光スポットです。

ここには奥州の覇者伊達政宗公が植えたとも言われる樹齢400年の紅シダレザクラと乙姫桜があります。

 高さ13メートル、胴回りが3メートルもある桜の大木は見る者を圧倒します。