月別アーカイブ: 2017年12月

飛鳥寺ご本尊大仏はイケメンでした。

明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。
 今年も私達二人でこのコーナーを盛り立てて参ります。
   平成30年元旦 
     宗像信子&安司弘子 

鳥寺ご本尊大仏はイケメンでした。

宗像 信子

日本最古の飛鳥大仏にお会いしに行って来ました。

飛鳥寺のパンフレットによると、588年に蘇我馬子が発願し、596年に推古天皇に創建された日本最初の寺で、本尊飛鳥大仏は推古天皇が609年に詔して鞍作鳥(止利仏師)に造らせた日本最古の仏像であると書かれています。

「高さ3メートルで当時銅15トン、黄金30キロを用いて造られている。平安・鎌倉時代の大火災で全身罹災、後補を受けているが、概形には飛鳥彫刻らしい形をとどめ、細部にもかなりはっきりした飛鳥の特色を伝えている」と説明されているこの大仏さま、今風に言えばちょっと渋めのイケメンです。

眺めていると心が落ち着くし、わくわくもしてきます。

奈良の明日香村にひっそりと佇んでいらっしゃるそのお姿に胸がいっぱいになりました。

ぜひ皆様もこのハンサムな仏像さまに会いにいらっしゃいませんか。

 


何と艶やかな市杵島姫神社

何と艶やかな市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)

宗像 信子

前回ご紹介しました大神(おおみわ)神社の中に、何とも艶やかな神社がありました。

大神神社のパンフレットには、「この神社は九州の宗像の神様の一人、市杵島姫命を祭っています。海の神、水の神であり、芸能をつかさどる弁天さんとしても親しまれている」と書かれています。

大神神社は静謐な広大な敷地にいくつもの神社ありますが、その中でもちょっと雰囲気が違う美しい神社です。

今年ユネスコの世界文化遺産に登録された「神宿る島 宗像沖ノ島と関連遺産群」に祀られている三女神のお一人です。宗像三女神は「宗像大社の社伝」によれば沖津宮の田心姫神(たごりひめのかみ)、中津宮の湍津姫神(たぎつひめのかみ)、と辺津宮の市杵島姫(いちきしまひめのかみ)です。

この市杵島姫神は弁天様とも呼ばれていて、私たちの身近なところにも祀られています。なぜかというとインドの神様である弁財天と同一視されているからです。水の神様であり、見目麗しい女神であることも一因しています。

この宗像大社と三女神については私の夫であり開運道の顧問兼講師である宗像善樹著の「史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説」(右文書院発行)をお読み頂けたらと思います。

ぜひ大神神社にいらした暁にはおみ足をのばして参拝して下さいませ。

 

 


照姫と森要蔵ー2


このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

 

「戊辰・白河戦争」ものがたり

照姫と森要蔵-2

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

さて、照姫の実家、上総飯野藩保科家には、北辰一刀流千葉道場の四天王といわれた、森要蔵という男がいました。
森要蔵は、神田お玉が池の千葉周作に就いて剣を学び、飯野藩に剣術指南として仕えました。照姫の父である藩主から道場を開くことを許されて、江戸麻布永坂の道場には、門弟が数百人に及び、
〝保科には 過ぎたるものが二つある 表御門と森要蔵〟
といわれるほどの剣客でした。
戊辰戦争になると飯野藩はやむなく恭順したので、要蔵はそれまでの恩義に報いるために脱藩。老骨に鞭をうって末子の虎男や藩士・弟子ら義侠の二十八名を率いて照姫のいる会津に赴きます。
白河では、西郷頼母の指揮下に入り、新選組などと同じく会津街道羽鳥口に出動。このとき、要蔵は上羽太(西郷村)の修験(法印)橘家に宿営しましたが、龍の文様を施した小柄のついた、芥子鞘の小刀を形見として残していき、関の孫六」作と伝わります。
七月一日。要蔵らは激しい戦闘の中を果敢に斬りこみましたが、ついに、西郷村の下羽太で銃弾に斃れ、壮絶な最後を遂げます。要蔵五十九、わずか十六歳の息子虎男も共に戦死しました。
この時の対戦相手は土佐藩八番隊。その中には、なんと、かつて江戸で要蔵と剣を交わした、土佐藩司令官の川久保南皚や、剣術を教えた弟子たちがいました。
要蔵の遺体は、会津兵らの屍とともに村人によって羽太の大龍寺の裏山に埋葬されました。その後「戦死墓」を寺の南方に作り合葬しましたが、川久保らによって丁寧に葬られたとの話もあります。
ところで、森要蔵の孫に講談社を設立した野間清治がいます。清治の父好雄は飯野藩の家老の家柄に生まれ、森要蔵の一番弟子でした。清治もまた剣道に励みますが、怪我により修行を断念。
しかしこのような血筋からか、清治は剣道こそ人格確立と修養の最善の道として「野間道場」を設立し、剣道の普及に尽力しました。
その長男で、二代目の講談社社長となった、野間恒は展覧試合で優勝して、「昭和の大剣士」と謳われました。
また、剣道家でありながら、フェイシングで全米チャンピオンとなって驚愕された、「タイガー・モリ」の異名をとった森寅雄は要蔵のひ孫にあたります。

 

 

 


照姫と森要蔵ー1

 このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)が担当しています。

「戊辰・白河戦争」ものがたり

照姫と森要蔵ー1
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)
幕末の会津藩松平(保科)家は、子供がいずれも早世していたため、一族の上総国飯野藩(千葉県富津市)の保科家から、十歳の照姫を養女として入れました。やがて婿養子を迎えて会津藩を継がせるつもりでした。
しかし、翌年(一八四三)、おもいがけなく藩主容敬に女児(敏姫)が誕生。そのご、敏姫の婿養子として美濃国高須藩(岐阜県海津市)から松平容保を迎えます。このとき、照姫は十五歳、容保十三歳、敏姫四歳でした。
三人は会津藩の江戸屋敷で仲良く暮らします。
照姫は、書・茶道・礼法に通じた、才色兼備の女性に成長し、特に和歌に優れ、二歳年下の容保は手ほどきを受けていたといいます。
十八歳になった照姫は、豊前中津藩(大分県中津市)十万石の藩主・奥平昌服の正室として嫁ぎますが、五年後に離縁し、江戸の会津藩邸にもどりました。
その翌年に容保と敏姫が結婚。
容保が京都守護職を受けざるを得ない状況に追い込まれ火中の栗を拾うと、会津藩は悲劇の道をたどることになります。
鳥羽・伏見を幕開けとする戊辰戦争が勃発すると、藩士たちとともに照姫も江戸から会津に引き上げることになりました。その折、白河を通る時に詠んだ歌が残っています。
〝思ひきや わが身の上と しら河の 関路をやがて 越えぬべしとは〟
まさかこんな事態になるとは、思いもよらなかった・・・と、ようやく辿り着いた会津への玄関口しらかわで嘆いています。
照姫は、ひと月にもおよぶ鶴ヶ城の籠城戦で、十九歳で他界していた敏姫に代わって、山本八重(のち新島八重)や、山川咲子(のち大山捨松)や、高木時尾(のち斉藤一の妻)らを含む、六百人もの婦女子たちの先頭にたち、食事の用意や傷病者の手当て、防火活動などに携わり、士気を鼓舞して壮絶な抵抗を示しました。
戦後は、実家にもどり髪を切りおとして名を照桂院と改めました。
明治十七年、東京小石川の保科邸で五十五歳の生涯を閉じています。
明治二十六年、照姫の墓は、容保の墓とともに、東京から会津若松東山にある、松平家の墓所に改葬されました。


奈良の大神神社

奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)

宗像 信子

今回は開運村のお休み処に小林永周講師が「全国開運&心霊スポット」として紹介されている大神神社に行って参りました。
まさしく心霊スポットのような聖なる神社でした。
小林講師によると、
大神神社は、原始形態の神祀りの様式をとる日本最古の神社です。この三輪の地は古代大和の文化発祥の地とされ、大神神社は神が宿る聖なる山、三輪山をご神体としています。
ご祭神は国造りの神様である大国主神が自らの御魂を三輪山にお鎮めになり、大物主大神の名で祀られたのが大神神社の始まりとされています。
と解説されています。詳しい解説はぜひお休み処をご覧になって下さいませ。
とても広大な敷地にいくつもの神社があり、それぞれが意味を持つ立派な神社です。
まず写真の拝殿が中心にありますが、本殿はありません。それは背後にそびえる三輪山そのものがご神体だからです。拝殿の裏側には三ツ鳥居(三つの鳥居を組み合わせてできている鳥居)があり、そこから先は神職すら安易に入山できない禁足地になっています。
また拝殿から西側に山を登って行くと狭井(さい)神社があります。ここは三輪の神様の荒魂(あらみたま)を祀っています。力強いご神威から病気平癒の神と親しまれ、傍らには万病を癒す御神水が湧く「薬井戸」があります。若水をいただき、無病息災を祈りました。この神社への参道は「くすり道」と呼ばれ、道の脇には全国の製薬会社奉納の薬木・薬草・記念碑がありました。
湧水は甘くて美味しかったです。この大きな森の中のマイナスイオンをたっぷり吸い、若水を飲んだら何か心と体が生き返ったようでした。
どうぞ、皆様のぜひ奈良にいらしたらこの地まで足をのばして参拝してみてください。