鎮魂稲荷山  安司弘子

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「戊辰・白河戦争」ものがたり

鎮魂稲荷山

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

【戊辰戦争と遊女】

明治二年正月十八日の白昼のこと。白河の遊女が殺されました。

幕末。徳川幕府の権威は失われ、慶応三年(一八六七)十月、将軍徳川慶喜はついに大政(政治権力)を奉還(天皇にお返しすること)しました。
二百六十年間も続いた幕藩体制が崩れたのです。
十二月には、武家政治を廃して再び王政にもどる、王政復古の大号令が発せられ、十六歳の天皇を中心とする新政府ができました。
そして慶応四年正月、とうとう旧幕府側と新政府側とが京都の鳥羽と伏見で衝突しました。これが戊辰戦争の狼煙となった「鳥羽伏見の戦い」で、錦の御旗を担いだ新政府軍が圧倒的な勝利を収めました。
《因みに戊辰とは干支(十干と十二支との組み合わせ)で、暦や時刻・方位などに用いられる数を表す語です。
ぼしん戦争が勃発した慶応四年・明治元年・一八六八年の干支は十干が戊(ぼ・つちのえ)十二支が辰(しん・たつ)でした。干支は六十を周期とします=還暦》

幕末の動乱はつづきます。新政府軍は慶喜を追い江戸に向って各地で戦い、勝利を重ね、各藩を従えて北上しました。
しかし、勝海舟と西郷隆盛との会談で江戸城は無血開城となり、慶喜の恭順で武力の矛先を失った新政府軍は収まりがつきません。そこで、京都守護職として幕府を支えた会津藩を朝敵として、更に戦線は北関東を歴戦し奥羽の関門白河にまで及んだのです。

この時白河城は空き城でした。
慶応元年(一八六五)、幕府老中だった白河藩主阿部正外は、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ四か国の強力な兵庫開港要求に対し、直接交渉を担当しましたが、朝廷の勅許を得られないままに緊急事態と判断して開港に踏み切りました。
これが朝廷の怒りに触れ、その責任を負わされた正外は老中職を処分、官位召し上げ、更に国元謹慎となりました。
翌二年、正外に代わり正静が白河藩十万石を継いだものの、慶応三年には棚倉に国替えを命じられ、白河を去ってゆきました。
そして、白河は幕府の直轄となり、大政奉還後は新政府が管理していました。
そんな状況下の慶応四年閏四月九日、新政府軍の奥羽鎮撫総督参謀として、白河城に入ったのは長州藩の世良修蔵でした。白河城に在城している東北諸藩に早く会津を攻撃せよと促すためでした。
白河での夜々、世良参謀が贔屓にしたのが、本町の旅籠内池屋の遊女茂吉でした。茂吉は越後三条の生まれで本名はしげといい、幼いころに内池屋に養女として抱えられ、茂吉の妓名で客に侍る身の上でした。
世良は諸藩が動かないので、総督府を早く白河に移そうと四月十八日に総督府のある仙台に向けて白河を立ちました。
途中、福島城下の旅籠「金澤屋」に泊りましたが、その際大山参謀に宛てた密書に「奥羽は皆敵と見て武力で討伐すべき」と書いてあるのが露見してしまいました。
会津藩に同情し、救済を求める仙台藩や米沢藩を烈しく刎ねつけた世良は、仇敵の如くに怨まれていました。そのため密書の件を知った仙台藩士らによって惨殺されてしまったのです。

さて、世良と馴染んだ遊女茂吉にも悲運が待っていました。素直な性格で皆に愛された茂吉が殺されたのは、世良が去って一年も過ぎてからの事でした。
殺害したのは、かつて白河で世良を附け狙った刺客で、戦後になっても戦争を挑発したとして恨みを持ち続ける、敗残藩の浪人だったと云います。
遊女は斬られた時人形を抱いて眠っていました。
遊女の言い伝えは別にもあり、女石(旧奥州街道・仙台に向かう分岐点)の脇道に供養碑が建てられ、坂田屋のしげとして紹介されております。
犯人は旧会津藩士で、旧藩士もまた、追いかけてきた伎夫にこの分岐路で殺害されたとしています。
しかし、第三のしげもおります。
「待つ間なく 人の出入りや 花盛り」。
告麗舎という俳号を持つ本町の旅籠湊屋の妓女しげは、町の俳句の同人で、句を詠む教養人でした。知的で美しく人気を集める湊屋のしげが、西軍参謀世良修蔵の目に止まり見初められたのかもしれません。
「遊女しげ殺害事件」は、世良憎しの風潮と、「しげ」という名の遊女が何人もいたことから、ストーリーがもつれていったのではないでしょうか。