月別アーカイブ: 2017年11月

古都を楽しんできました。

東寺と国宝五重塔

宗像 信子

 真言宗総本山の東寺(とうじ)は京都に着くと、一番最初に目に入る国宝五重塔を有するお寺です。
「あー京都に  来たんだ」という気持ちにさせてくれます。
世界遺産登録されている東寺は、唯一残る平安京の遺構で、創建は天長2年(825)です。
公式ホームページによると、創建からおよそ1200年、長い歴史を経て、平成6年(1994年)に世界遺産として登録されました。
東寺は平安遷都とともに建立された官寺(かんじ)、つまり国立の寺院です。その寺院を桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇は、唐で新しい仏教、密教を学んで帰国した弘法大師空海に託しました。
ここに、日本ではじめての密教寺院が誕生します。
東寺を託された弘法大師空海は、密教の主尊(しゅそん)である大日如来を境内の中心に据え、広大な寺域に曼荼羅(まんだら)を表現しようとしたのかもしれません。
造営にあたって、弘法大師空海は、御影堂(みえいどう)の場所に住房を構えました。
御影堂では、いまも毎日、弘法大師空海がいらしたときと同じように、一の膳、二の膳、お茶をお出ししています。
パンフレットには「東寺に来られたら、まず御影堂にお参りください。次にお堂に上がり、ひととき弘法大師空海とお話しください」書かれています。
国宝の金堂は文明18年(1486)に焼失し、今のお堂は慶長8年に竣工、重要文化財の薬師如来と日光・月光菩薩が安置されています。
重文の講堂は延徳3年(1491)に再興された建物で、国宝や重文の21体の仏像が安置されています。このように、どこを観ても国宝、重文だらけで身が引き締まる思いでした。
ここで、私が体験した笑い話をひとつ・・・ここには食堂(じきどう)という建物があります。私が約30年ほど前に初めて東寺を訪れたときに、この食堂をレストランだと思い、思わず同行者に「このお寺にはレストランがあるのね」と言って、大いに笑われました。今でもその同行者はこのことを覚えていて、ことあるごとに笑い話として言われます。この食堂は現在、資料館のような役割をしています。

最後に、写真の国宝五重塔ですが、高さ55メートル、4度の消失と再建を経て、現在は五代目だそうです。ただ消失しても必ず同じ大きさで建て直したそうです。それは五重塔に限らず東寺の全敷地は創建当時と変わらないということです。
京都のお寺ではありますが、華やかさはなく、心が安らいで落ち着いてくるお寺でした。
京都にお立ち寄りの節はぜひ、お参りして下さいませ。


鎮魂稲荷山  安司弘子

ようこそ!! 信子&弘子(二人のプロフィールは「お世話人紹介」で・・・

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「戊辰・白河戦争」ものがたり

鎮魂稲荷山

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

【戊辰戦争と遊女】

明治二年正月十八日の白昼のこと。白河の遊女が殺されました。

幕末。徳川幕府の権威は失われ、慶応三年(一八六七)十月、将軍徳川慶喜はついに大政(政治権力)を奉還(天皇にお返しすること)しました。
二百六十年間も続いた幕藩体制が崩れたのです。
十二月には、武家政治を廃して再び王政にもどる、王政復古の大号令が発せられ、十六歳の天皇を中心とする新政府ができました。
そして慶応四年正月、とうとう旧幕府側と新政府側とが京都の鳥羽と伏見で衝突しました。これが戊辰戦争の狼煙となった「鳥羽伏見の戦い」で、錦の御旗を担いだ新政府軍が圧倒的な勝利を収めました。
《因みに戊辰とは干支(十干と十二支との組み合わせ)で、暦や時刻・方位などに用いられる数を表す語です。
ぼしん戦争が勃発した慶応四年・明治元年・一八六八年の干支は十干が戊(ぼ・つちのえ)十二支が辰(しん・たつ)でした。干支は六十を周期とします=還暦》

幕末の動乱はつづきます。新政府軍は慶喜を追い江戸に向って各地で戦い、勝利を重ね、各藩を従えて北上しました。
しかし、勝海舟と西郷隆盛との会談で江戸城は無血開城となり、慶喜の恭順で武力の矛先を失った新政府軍は収まりがつきません。そこで、京都守護職として幕府を支えた会津藩を朝敵として、更に戦線は北関東を歴戦し奥羽の関門白河にまで及んだのです。

この時白河城は空き城でした。
慶応元年(一八六五)、幕府老中だった白河藩主阿部正外は、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ四か国の強力な兵庫開港要求に対し、直接交渉を担当しましたが、朝廷の勅許を得られないままに緊急事態と判断して開港に踏み切りました。
これが朝廷の怒りに触れ、その責任を負わされた正外は老中職を処分、官位召し上げ、更に国元謹慎となりました。
翌二年、正外に代わり正静が白河藩十万石を継いだものの、慶応三年には棚倉に国替えを命じられ、白河を去ってゆきました。
そして、白河は幕府の直轄となり、大政奉還後は新政府が管理していました。
そんな状況下の慶応四年閏四月九日、新政府軍の奥羽鎮撫総督参謀として、白河城に入ったのは長州藩の世良修蔵でした。白河城に在城している東北諸藩に早く会津を攻撃せよと促すためでした。
白河での夜々、世良参謀が贔屓にしたのが、本町の旅籠内池屋の遊女茂吉でした。茂吉は越後三条の生まれで本名はしげといい、幼いころに内池屋に養女として抱えられ、茂吉の妓名で客に侍る身の上でした。
世良は諸藩が動かないので、総督府を早く白河に移そうと四月十八日に総督府のある仙台に向けて白河を立ちました。
途中、福島城下の旅籠「金澤屋」に泊りましたが、その際大山参謀に宛てた密書に「奥羽は皆敵と見て武力で討伐すべき」と書いてあるのが露見してしまいました。
会津藩に同情し、救済を求める仙台藩や米沢藩を烈しく刎ねつけた世良は、仇敵の如くに怨まれていました。そのため密書の件を知った仙台藩士らによって惨殺されてしまったのです。

さて、世良と馴染んだ遊女茂吉にも悲運が待っていました。素直な性格で皆に愛された茂吉が殺されたのは、世良が去って一年も過ぎてからの事でした。
殺害したのは、かつて白河で世良を附け狙った刺客で、戦後になっても戦争を挑発したとして恨みを持ち続ける、敗残藩の浪人だったと云います。
遊女は斬られた時人形を抱いて眠っていました。
遊女の言い伝えは別にもあり、女石(旧奥州街道・仙台に向かう分岐点)の脇道に供養碑が建てられ、坂田屋のしげとして紹介されております。
犯人は旧会津藩士で、旧藩士もまた、追いかけてきた伎夫にこの分岐路で殺害されたとしています。
しかし、第三のしげもおります。
「待つ間なく 人の出入りや 花盛り」。
告麗舎という俳号を持つ本町の旅籠湊屋の妓女しげは、町の俳句の同人で、句を詠む教養人でした。知的で美しく人気を集める湊屋のしげが、西軍参謀世良修蔵の目に止まり見初められたのかもしれません。
「遊女しげ殺害事件」は、世良憎しの風潮と、「しげ」という名の遊女が何人もいたことから、ストーリーがもつれていったのではないでしょうか。


 パリ? ニューヨーク? ここはどこ?


ようこそ!! 信子&弘子(二人のプロフィールは「お世話人紹介」で・・・

パリ? ニューヨーク? ここはどこ?

宗像 信子
今回このコーナーを安司弘子さんと一緒に担当することになりました宗像信子です。
早速ですが、私は今どこにいるのでしょうか?
パリのセーヌ河畔?
ニューヨークのハドソン川のほとり?
本当はそうありたいのですが、残念ながら東京のお台場です。
お台場のビュースポットから自由の女神とレインボーブリッジを眺めました。
そしてこのレインボーブリッジの左奥には、開運道スクールがあります。
もちろんここからは見えませんが、遠く目を凝らすと築地方面にパワースポット開運道の気が見えるような気がします。
このお台場にある自由の女神はフランス政府からレプリカの建立が認められ、フランスのクーベルタン鋳造所で制作されたブロンズ製で2000年に設置された像です。
ニューヨークにある自由の女神は、フランスがアメリカ独立100周年(1876年)を記念して贈ったものですが、実際に設置されたのは1886年です。
そしてセーヌ川を見下ろす自由の女神は、アメリカに贈る女神像を制作するための試作模型の石膏型を使って制作されました。
アメリカの四分の一の大きさです。
これはパリ在住のアメリカ人の寄付によって、フランス革命100周年を記念して制作
され、1889年パリ万博の際にこの場所に建てられました。
これら二つの自由の女神像は大西洋をはさんで向かい合うように立っています。
なんだかロマンチックまお話ですね。


戊辰・白河戦争ものがたり[鎮魂稲荷山]ー安司弘子

「戊辰・白河戦争」ものがたり

  鎮魂稲荷山

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

戊辰戦争から150年を目前にして、平成27年8月、あの5月1日の大激戦地稲荷山に、戊辰白河戦争の記念碑が建立され、「戊辰戦争白河口の戦い戦死者」の碑と「戊辰之碑」が並んでいます。
白河地方には、東西双方の戦没者に捧げた墓や慰霊碑が、おびただしくあります。その数は、ほかの戊辰戦争遺跡に例がないでしょう。
当時の住民の記録や談話では、双方の軍に対し、「官軍様・薩州様・長州様」「奥勢・奥兵・会津様・二本松様・阿部様」と呼んでおり、ことさらに差別していません。
この記念碑は、百日近い白河戦争で散華された、敵対する両軍の英霊の全員のお名前を碑に刻んでおり、「奥羽の咽喉」にふさわしいモニュメントです。
さて、稲荷山の地が競売にかかった時、西郷頼母研究家の堀田節夫さんは、他に転用されるのを懸念して購入し、その半分を白河市に寄贈され、稲荷山公園として活用されています。
記念碑は、建立の前年に亡くなった堀田さんの遺言により、白河市に新たに寄贈された場所に建てられました。堀田さんが建てた、あの「蝸牛歌碑」のすぐ近くです。

多大な支援を申し出て、背中を押して下さったTさん。記念碑の憑代となる、「戊辰之碑」を刻む自然石(鮫川石)を、自宅の庭からプレゼントして下さったWさん。そして、この趣旨に賛同され、支援してくださった、地元をはじめ全国のたくさんの皆様のご厚情で、この趣意は実現しました。

除幕式には、山口県からもお出でいただき、白河と萩の住職が並んで読経される光景は、参列者の胸を打ちました。この日、静かに降りつづく雨は、地下に眠る御霊の、嬉し涙だったのでしょう。

除幕式の翌年のある日、この場所に立つご婦人の姿がありました。今は亡きTさんの奥様です。傷心の彼女は、棚倉藩士として戦没した、夫の高祖父の名前が刻まれた碑の前に立ち、献花と祈りをささげ、ハーモニカで『故郷』の曲を奏でていました。
ふる里へ想いを馳せながら戦死した、御霊に捧げる荘厳な鎮魂歌でした。

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