41、人の情け-1
早朝の土山宿は旅籠を出る旅人と、それを送る人々の声で賑わっていた。
宿を出た旅人は、京路は西に、鈴鹿峠を越えての伊勢路は東へと、それぞれの目的の地を目指して旅立って行く。左門と田島主膳も、孝次郎、佐助、咲など家族や奉公人一同に見送られて旅籠・松阪屋を出立した。
佐助の声に振り向くと、手を降る佐助と咲の姿が朝もやの中におぼろげに見え、その背後に見えるはずの鈴鹿の山々は白い霧に包まれて視界から消えていた。左門は軽く手を振っただけで、すぐ視線を元に戻して主膳に続いて足を早め宿場の賑わいの中に入った。
長細く続く宿場の軒下には、道具屋、めし屋、古着屋、薬屋、刃物屋などを商う店が軒を並べていて、あちこちから旅人に声をかけてくる。
やがて、宿場を過ぎると松並木が続く。
左門が心細げに周囲を見た。この道を再び戻って尾張の地を踏むことができるのか……
その左門の心の揺れを読んだのか、主膳が前を向いたまま言った。
「これからは、何かあったら必ず京の九条家にくるんだぞ」
「でも……」
「なんだ?」
「九条家といえば、関白の地位にもあって三千石の高祿をはむ五摂家筆頭の高貴なお家柄ですね?」
「その通りだ」
「でも、九条家の位は一条家より下ですか?」
「それは遠い鎌倉時代の話じゃ。藤原氏北家嫡流の兼実公から出て、九条に屋敷を建ててことから九条殿と呼ばれたのだが、一条家も二条家も九条家から出て五摂家となった。五摂家は、それぞれ朝廷内に仕えて権勢を振るったが、今は九条家が栄華をきわめとる様子だな」
「これからも繁栄しますか?」
「いや、栄枯盛衰は時の運、この先のことは分からん。今の当主の輔嗣さまは、わしと同年じゃから話が合うから、わしを呼んだんじゃろ」
「そのご長男の尚忠さまが、いま十六歳なのですね?」
「何で知ってる?」
「以前、田島さまから聞いています」
「そうか、わしが話したか?」
「聡明なお子だそうで、ぜひ会ってみたいですね」
「なぜだ?」
「公家衆の若者までが、本当に鎖国派なのか知りたいのです」
「それは、どうでもいいことだ。いずれは攘夷か開国かはっきりする」
「わたしは開国派ですが、お公家さんの殆どは外国嫌いの攘夷派ですね?」
「いや、彼らの本音は、実際にはどちらでもいいのだ」
「なぜですか?」
「鎖国だの攘夷だのと言って、憂国の士を気取ったところで、所詮は、この混迷の時代に咲いたあだ花……いずれ時が過ぎれば、何もかもが泡沫のように消えるだけじゃよ」
「田島さまは、まつりごとには興味がないのですか?」
「興味はあるさ。いくら公家や硬骨な武士どもが尊皇攘夷を叫んだところで、開国は時代の流れだ。外国船の渡来を阻止はできん」
「その九条家の主は、尊皇攘夷ではないのですか?」
「攘夷派の旗頭だが、攘夷などは絵に描いた餅じゃ。わしが説教してやる」
「素直に耳を貸しますか?」
「武器の優れた異国人と戦うんだ。わしの話ぐらいは聞くさ」
主膳が左門の顔を覗くようにして、真面目な顔をした。
「ところで才次郎。おまえはどうせ勘当された身だ。命を捨ててみろ」
「命をですか? この前は捨石になれ、と言われましたが?」
「生きようと思うと迷いが出る。死のうと思えば身も心も軽くなる」
「でも、まだ十八ですよ?」
「若い命だからこそ、捨て甲斐があるというものだ」
「意味がわかりません」
「ま、何事も死んだ気になってやれ、ということじゃよ」
「それなら、分かります」
「これから迷いが出たら、それを思い起こすことだな」
前野の村を抜け野津川の橋の手前で主膳が足を止め、街道脇の岩に腰を下ろした。旅人が休息しやすいようにか自然なのか、橋の両側に大きな岩が散在している。宿を出てまだいくらも歩いていないから、疲れ休みではないのは明らかだ。
「才次郎、あれを見ろ!」
「なんですか?」
目線の先に、老婆を背負った貧しい旅姿の女がゆっくりと歩いて来るのが見えた。その肩にすがるようにして老いた百姓姿の男がよろめきながらついて来る。鈴鹿方面から上がった秋の朝日が正面から女の顔を照らすから、女の額を濡らす汗がキラキラと光った。
「年寄り二人を連れての鈴鹿峠越えか……大変だな」
「着衣の汚れがひどいですから、きっと長旅の帰路ですね?」
「京か? 夕べは水口宿泊まりで夜明け立ちかな?」
「だと、すると、かなり疲れてますね?」
三人が橋を渡るのを待って、主膳が岩に座ったまま優しく声をかけた。
「遠い旅路でお疲れのようじゃが、どちらからかな?」
「はい、奈良から京都をまわって津に戻ります」
老婆を背負った女は二十路半ばであろうか、その疲れ切った顔に似合わず明るい声で主膳に頭を下げて応じた。女の肩につかまって歩いて来た男は崩れるように岩に座った。
「水でも進ぜよう」
主膳が腰から水入れの革袋を外すのを見て女があわてた。
「お気持ち嬉しく存じますが、水は持っていますで」
「峠越えに持っている水は貴重だ。ここは遠慮するな」
「もうすぐ土山の宿ですから」
「そこまでに倒れたらどうする? すごい汗じゃないか」
主膳が、すぐ隣の岩に腰を下ろした男を無視して女の背の老婆を見た。
「どうだ,水を飲むかね?」
背の老婆が頷いたのを見て、主膳が女に言った。
「お婆は水が欲しいそうだ。少し休んで行きなさい」
今度は素直に頷いた女が、ゆっくりと腰を折って老婆を下ろし、岩に坐らせた。
「お言葉に甘えます。ご親切に済みません」
「礼には及ばぬ。喉を癒して一休みすれば元気も出よう」
「でも……」
女が懐中から出した手拭いで汗を拭いながら遠慮するのを、主膳が諭した。
「水不足は疲れを呼ぶ。我々はこの谷川から汲むから心配は要らん」
主膳から手渡された竹筒の水を、老婆が喉を鳴らして旨そうに飲み干した。それを嬉しそうに眺めている女の喉が、唾を飲み込んで動いたのを左門が見た。
主膳が言った。
「才次郎、お前も水を上げなさい」
左門が、恐縮する女に竹筒を渡すと、女は「有り難うございます」と言って、自分は口もつけずに、岩に腰を下ろして荒い息を吐いている老いた男に竹筒を手渡した。
誰にともなく
「有り難う」と言って男は水を一滴も残さずに一気に飲んだ。
それを嬉しそうに見つめる女の喉がまた動いた。喉が乾いているのだ。
女のために水を汲みに行くのも変だから、と主膳を見ると、主膳は背の風呂敷から油紙の包みを取り出し、それも老婆に渡している。
「宿で貰った握り飯だ。どこぞで食べなさい」
「とんでもねえことです。もう、お水を頂いただけでも有り難いことでして」
主膳が左門を見た。その目は明らかに
「握り飯も出せ」と言っている。
左門も仕方なく、荷の中から握り飯を取り出して遠慮する女に手渡した。
老女が言った。
「見知らぬお武家さまのお恵み、有り難くお受けします。おらたち親子は、このご恩をけっして忘れはしねえです」
「親子?ってことは、こちらは娘ごか?」
親子と聞いた主膳がまじまじと三人を交互に見た。年齢差が大き過ぎて、どうみても親子には見えない。水を飲んで元気が出たのか老いた男が口を開いた。
「お武家さんが戸惑うのも無理はねえです。この子は養女なもので」
「養女か? ならば歳の差も納得じゃ」
「おらは、連部村の伝蔵といいますだが、おらたち夫婦は体も弱く子供もなく、寂しい老後を覚悟してただが、村の長老の口利きで、この娘、トセが六歳のとき、財産も何もない我が家に養女に来てくれて、子供のときから食事や洗濯など家事全般はおろか、病弱なわたしらがお伊勢参りや温泉めぐり、熊野詣でにも二人の面倒をみてくれてるです」
「結構なことだな」
「おらたちは、これで一生幸せで死んでいけるだが、二十六になるこのトセが、ただただ働きづめで、嫁にも行けず婿も来ず、こうして過ごしてるのが心残りで……」
老夫婦が涙ぐむのを、トセが交互に背をさすったりして慰めている。
42、人の情け‐2
山々を包んでいた深い霧は低い雨雲だったのだ。
街道の松並木の梢も路傍の草花も冷たい秋風に揺れている。岩に腰掛けた三人の中で、口だけは達者だった伝蔵という老人の顔色が冴えない。本来は美貌であろうトセの顔にも疲労が色濃く影を落として、やつれた顔をさらに暗くしていた。
主膳がその横顔を見つめて言った。
「トセさん、と言ったね?」
「はい」
「伝蔵さんの五臓六腑が、かなり弱ってますぞ」
主膳の問い掛けに、ぐったりと岩に寄り掛かって目を閉じていた老人が閉じていた目を見開いて気丈に応じた。
「少し疲れただけで、どこも悪くはねえですだ」
主膳は長年の経験で、伝蔵という老人がかなりの重病であるのを見抜いていた。
娘が言葉を継いだ。
「父は肺の臓を病んで二年前に一度死に損なっています」
「それはいかん。無理はできんな」
「でも、どうしても死ぬ前に奈良の大仏さまと京の街を見たいというもので……」
「そうか、覚悟の上の死出の旅だったのじゃな」
主膳が、流れる雲を見上げてトセに言った。
「なにやら雲行きが怪しくなった。その荷では蓑も雨合羽も持たんようじゃが?」
「じつは……」
伝蔵がトセに代わって答えた。
「昨夜は水口で宿をとるつもりでしただが、三雲の村はずれで三人組の追剥ぎに襲われまして……」
「追剥ぎに?」
「わしらは百姓夫婦に娘一人、持ってるものは全財産だと言いましただが……」
「そんなことで止めるぐらいなら追剥ぎはせんじゃろう?」
「刃物を突きつけられ、着替えも金も雨具や土産、何もかも奪われましただ」
「ケガはなかったか?」
「わしらの目の前で、やつらはトセを押し倒して手込めにっしようとしただが、婆さんが〔娘を犯すなら、わしからやれ!〕と、泣きわめいて体を投げ出したで……」
「どうした?」
「興ざめした顔で姿を消したです。これで命拾いをしましただ」
「なるほど、彼らの気持ちも……いや、娘を思う親心が危機を救ったのじゃな。金銭や荷駄はともかくケガもなくて何よりじゃった」
「はい。そう思って諦めておりますだ」
主膳が左門を見た。
「才次郎……」
「はい」
「お前は急ぐ旅でもない。この人たちの面倒を見る気はないかね?」
「と、言いますと?」
「このお年寄りを連れて山を越えてみろ、と言うことじゃ」
左門が振り向いて、霧にかすむ鈴鹿の山を見た。
「峠越えですか?」
「いやなら、止めてもいいぞ」
「私でやれますか?」
「これも、世直しの一歩になるかも知れんからな」
「それもそうですが」
「土山宿の松阪屋で雨合羽と飯を用意して、駕籠が呼べれば背負わなくてもいいぞ。そのぐらいの金は惜しくもないだろ?」
「駕籠は無理でしょう。朝一番で旅立つ客が駕籠を奪い合っていましたから」
「ならば仕方ない。おまえが背負って山を越えるしかないな」
「私がですか?」
主膳が立ち上がって娘に言った。
「トセさん。この才次郎……いや、大原左門を預けるから、安心してお帰りなさい」
「何から何までご親切に、ありがとう存じます」
「お二人さんも達者でな」
立ち上がった主膳は、伝蔵夫婦にも労りの言葉をかけ、渋る左門の肩を「頑張れよ」と笑顔で叩くと、橋を渡って後をも振り返らずに西に向かって立ち去った。その小さくなってゆく主膳の後姿を見つめながら左門が立ち上がった。
「仕方ない。戻るとするか」
やむなく自分に言い聞かせた左門は、背の荷物を老人に背負わせて屈み、「さ、遠慮なくつかまりなさい」と、力なく休む老人を叱咤して背負い、ゆっくり歩きだした。その後を老母を背負ったトセが続く。
左門が背後を向いてトセに短い言葉を投げた。
「土山の宿で一休みするぞ」
それだけ言うと左門は口をつぐんだ。年上の娘に話しかけるのが苦手なのだ。
だが、左門の背に揺られる年寄りは黙っていない。すでに体力は尽きていて歩く力は無い様子だが、何かを喋りたい衝動がその口を開かているのか、か細い声で左門の耳元に話しかけてくる。
「誰かに、おらの気持ちを知ってもらいたかっただが、それが、こんな若いお侍さんになるとは、思ってもいなかっただ」
左門は老人の語りかけを無視した。これからの長旅を思うと、背中越しの会話に神経を使うのを考えると気が重いのだ。が、百姓の爺を背負って歩くなんて信じられねえことですだ。なぜ、こんなに親切にしてくださるだね」
左門は黙っていた。自分でも何故こうなったか理解ができない。(成り行きだから仕方がない)、若い左門には、好んで難事を引き受けるほどの義侠心はない。
痩せた老人とはいえ背負って歩いているうちにずっしりと重くなる。振り向くと、トセが足元をよろめかせながらも遅れまいと必死でついて来る。左門の耳元では老人の声が続いていた。
「トセはわしらの宝でごぜえます。妾の子として生まれたトセは、生家にも疎まれて幼いときに養女に出され、その養女先からも口減らしに捨てられたのです」
左門の視線の先に、松並木の彼方に人家が見え隠れしてきた。
「それで、身体の弱いわしら夫婦がところに養女に来てくれた六歳のときから、猫の額ほどの小作での田畑仕事から炊事洗濯、掃除に縫い物、両親の看病、その合間に近くの庄屋に奉公に出て賃金稼ぎと所の緒綾式にと寝る間を惜しんでの働きづくめで、近所でも評判の孝行娘と褒めそやされていましただ」
いくら耳元で囁かれても幼い子供が家事を手伝うなどということは、左門には信じられないことだし関心もない。
「トセが14歳の頃だったか、わしら夫婦はもう医者にも見放されたで死出の旅にと、病をおして無理を言い熊野詣でにでただが、それで元気づいたのか奇跡的に命をつなぎ、その後も最期の信仰にと出掛けた善光寺詣でで命をつないで来ましただ」
死にかけた病人が、長旅に耐えて命を永らえる? なおさら信じられない。
「トセがいくら働いたって、小娘一人の稼ぎでは細々と粟飯を食うのがせいいっぱい、わしら二人の療養にかかるお医者さんへの支払いもままならず、医者、庄屋さん、村の人たちからの借金だけでも溜まるばかり、積もり積もって二十両もの大金になり……」
「それで、どうした?」
思わず声をかけた左門は、内心で(しまった!)と悔いた。この老人の峠越えまでが自分の仕事で、それ以外のことには触れるべきではない。案の定、老人は苦しそうな息の中で勢いづいたように話しを続けた。
「今から五年前の文化六年に、トセの孝養を庄屋さんが安濃郡奉行の平松喜蔵さまにお知らせしたことから藩主さまの耳にも入り、褒賞として金五両、米二十俵を賜りましたが、それも借金の返済の一部にあてただけで焼け石に水。その元はといえば松坂の金貸しに借りた医者への謝礼と薬代の一両だけ……その借用証書が地元の権蔵というあぶれ者の手に渡ったために、利息がかさんだ借金の取り立てに追われ、あちことから金を借りては返済するというイタチごっこの有り様で、暮らしに困窮する毎日に変わりはございません」
(ならば、なんで、そんな思いまでして大金のかかる旅をする?)
この左門の素朴な疑問を見抜いたように伝蔵が続けた。
「借金の取り立てから逃れるのと、信仰に縋って何とか暮らし向きを建て直したいのと、行く先々の宿でトセが働かせて頂いて木賃宿の払いを稼いでいたのとで、この旅はやめられねえのでごぜえます」
左門は、老人の話を聞き流したが、冷たい小雨が舞って来たのが気掛かりだった。
「二年ほど前には、お伊勢さん参りの途中でおらが肺を病んで倒れたときには、村ではおらが死んだという噂も出たらしいだが、こうして今日まで生きて、人の情けに触れて、もういつ死んでもいいですだ」
左門にとって老人の死などどうでもいい。土山の宿に入ると茶店々などから「寄ってらっしゃい」の呼び声がかかり、旅籠・松阪屋も目と鼻の先に近づいている。
旅籠・松阪屋の水を蒔いて清められた玄関前で佐助が待っていて手を振っている。
「お帰り。待ってただよ」
「私が戻るのを知ってたのか?」
「さっき、お咲さんが戻って来て、そう言ってただ」
「咲が? 気づかなかったな。そこに居るのか?」
「それを伝えに立ち寄っただけで、すぐ消えちまっただよ」
「どこに行った?」
「そんなの、おいらが知ってるはずねえだろ」
「それもそうだな。ちょっと世話になるよ」
「ゆっくり飯でも食ってきな。雨合羽、わらじ、にぎり飯の用意もできてるだよ」
佐助が屋内に「お着きだよう!」ど叫ぶと、女中が濯ぎの水を運び、志津や孝次郎も姿を現して老人夫婦やトセに挨拶し、甲斐甲斐しく身のまわりの世話を始めた。
トセが左門に近寄り、心配そうに耳元で囁いた。
「お金がありません。ここのお代、お借りしてもいいですか?」
「それは、私が払うから心配ない」
それを聞きつけた志津が、トセに優しく語りかけた。
「ここは、この人の親戚みたいな家だから、無理を言ってもいいのよ」
「申し訳ねえだが、駕籠の用意はできなかっただ」
佐助が、申し訳なさそうに頭を下げた。
43、人の情け-3
旅籠でのしばしの休息でトセは元気を取り戻したが、老夫婦の疲労状態は極限に達していて、一日も早く津に戻らねばならないのだが、孝次郎の奔走でも、土山宿に駕籠はあれども担ぎ手がいないことが分かって、駕籠は断念せざるを得なかった。
駕籠がないとなると山越えにはかなり厳しいものになる。
「雨が止んでいる間に峠を越えるからね」
左門は、なまじ茶菓の接待を受けて休息したたために疲労が頂点に達している三人を促して立ち上がった。
左門と主膳が、熱田を夜明けに出て夕暮れの鈴鹿の峠までの二十里余の道のりを飛ぶように歩いたのと違って、女連れで老人を背負っての山越えの大変さはかなりの難事であることだけは間違いない。
代金をという左門の申し出を、孝次郎と志津が笑顔で断った。
「左門さん。くれぐれもお金と咲だけは大切にしてくださいよ」
二人の善意と志津の忠告を受けた左門は、トセと伝蔵夫婦共々に深々と頭を下げて松阪屋を後にした。
「津の帰りにまた寄りな」
佐助が名残り惜しげに手を振って別れを告げている。
伝蔵を背負って振り向いた左門が、孝次郎、志津、佐助、女中らに大きく片手を振ってから身体をひねって、鈴鹿越えに向かって歩を進めた。背の伝蔵はもう語りかけることもなく、左門が歩きだしてすぐ眠りについていた。
ただ、背になる人の眠りはずっしりと重さを増して、背負う者の疲れを誘うのだ。左
門もトセも黙して語らず、ただひたすらに秋風の中で汗にまみれつつ上りの山道を一歩一歩歩みを進めた。無言で歩む左門ではあったが、絶えずトセのおぼつかない足取りや荒い呼吸に気遣って、自分の歩みを調整してゆるめたり早めたりして先を歩いた。
宿場から樹林に包まれたなだらかな山道を一里ほど登ると、鬱蒼とした森に包まれた田村神社が左門の視界に入って来た。そこで、少し歩みをゆるめて背で眠っている伝蔵を気にしてみると、かすかなイビキが聞こえてくる。
「少し休むかね?」
左門が声をかけると、トセが「はい」と答えて立ち止まり、汗を拭ってから腰に下げ
た竹筒を取り出して背の老母に優しく話しかけながら水を与え、自分も一口飲むと、「休むと動けなくなりますから」と左門に言い、すぐに先に立って、雨曇の下で樹林枝
葉に包まれてさらに暗くなった山道を歩き出した。
老母を背負い、その重みによろめきながらも確実に一歩一歩の歩みを進めて行く女の後ろ姿を見つめながら左門は、トセのという女の凄まじい生きざまを見る思いがした。
幼くして邪魔子として養女に出され、その家からも口減らしで六歳の時に捨てられた
幼児期の孤独感と飢えの恐怖は、幼い時から身体にしみ付いて離れないに違いない。その絶望的で救いようのない幼いトセを拾ってくれたのが、病弱で身の回りの世話をしてくれる下女の役割の子供を探し求めていたのが伝蔵夫婦だった。
トセという養女を得た伝蔵夫婦は、朝から晩まで便利っ子としてのトセをこき使った
のだが、トセもまた捨てられまいとして必死に働いて夫婦に尽くして恩義に報いた。その結果、いつしかトセと伝蔵夫婦との間には実の親子以上の情が通うようになり、トセはただ老夫婦のために生きる存在になりきっている……これが左門の推察だった。
それがまた、生家を勘当され、いままた仮の保護者と慕った田島主膳とも別れて天涯孤独の身となった左門の境遇と重なって、トセを哀れと思う気持ちを深めるのだ。
やがて、息も絶え絶えに近江から伊勢への国境になる峠に辿りつくと、山深い街道の左右に、山崎屋、井筒屋、伊勢屋、坂井屋、鉄屋、松葉屋などの茶屋が立ち並び、それぞれに趣向をこらした幟をはためかせて客を呼び、行き交う客を招き入れて賑わっていた。
「さあ、休むぞ」
左門はためらわずに坂井屋と看板のある店に入って、休憩する旅人の足元を「ごめんなさいよ」と声を掛けながら縫って奥まった席に進み、腰を屈めて背上で眠り続けている伝蔵に声をかけて、空いている腰台の上に下ろして座らせようとしたが、伝蔵は左門の背中にしがみついたまま降りようともせず、イビキをかいて起きる気配もない。
隣の席で、くし刺しの団子をかじりながら茶を飲んでいた職人風の男が、伝蔵の顔を覗き込み、眉をひそめて左門に声をかけた。
「その爺さん、死にかける顔色だぜ」
左門の後に続いたトセが、その声であわてて自分の背から老母を降ろして駆け寄り、伝蔵の顔を覗き込み、「お父っつあん、死んじゃダメだよ!」と叫んで、左門の背から義父を抱え降ろそうとしたが、伝蔵の手が左門の肩にしがみついて中々離れない。
誰が聞き損なったか、死にそうだ……が、死人だ、に変わって、まだ伝蔵は生きているのに死人扱いにされてしまった。
「死人だとよ」
「縁起でもない。誰だ疫病神は?」
「お伊勢参りの帰りだにケチが付きやがっただ」
店内が大騒ぎになり、店の女が必死で混乱を静めようとするが、異変を知った物見客が店内を覗き見たり入りこんだり……台の上に横たわった伝蔵に抱きついて泣きわめく老婆まで夫が死んだと錯覚をしたらしい。困惑した表情のトセ、腕組みをして為す術もなく思案する左門、おろおろする接客係の女中、あわてて調理場から出て来て事情が飲み込めずに呆然と立ち尽くす調理方の男、それを囲む男女の群れで騒ぎは大きくなるばかりだ。
そこに外から現れた虚無僧が一瞥して状況を飲み込んだらしく、顔に深編笠を被ったままで尺八で茶屋の柱を叩いて大きな音を立てて注目浴びると、野太い声で怒鳴った。
「どうやら見せ物ではなさそうだ。困った人がいなさるのに邪魔をされると迷惑になる
ばかりじゃ。この場の払いはわしが持つ。どなた様もさっさと店を出なされ!」
これがまた山々に響くような大音声だから、驚いた客は我先にと店に出て、店内には関係者だけが残った。
「お帰りなさい」
調理方の男が頭を下げると、虚無僧が深編笠を脱ぎながら左門に声を掛けた。
「大原さま。どうなさいました?」
見ると、武士上がりの虚無僧としか見えない坂井屋の長兵衛がそこに立っている。
左門から事情を聞いた長兵衛の決断は早かった。
「孝次郎さんにも主膳さまにも恩義と借りがあるこの長兵衛、このぐらいのお手伝いはさせて頂きます。聞けば、こちらのトセさんの孝養によって、お父上も念願の西国めぐりを終えたとなれば、もう、どこで死んでも思い残すことはないでしょう。この顔色だと、今から麓に駆けて医者を呼んだとしても臨終には間に合いすまい。ならば、ここで、おだやかな最期を遂げさせて上げるのも親孝行というもの……幸か不幸か、これが私の店であったのも何かのご縁でしょうな。この伝蔵さんとやらを息のあるうちに津まで運ぶのも大変なことだし、長旅から帰っていきなりの死では村の人にも迷惑をかけるばかり。ここは、旅先で倒れたと考えるのが得策というもの。この重病人は、この長兵衛が責任をもってお引き受けけしますが、いかがですかな?」
「私は異論がありませんが、当事者のトセと母さまはいかがかな?」
トセがきっぱりと答えた。
「お父つあんは、どんなことがあっても安濃の連部村まで連れて帰ります」
それで左門も腹を決めた。
「よし、ならば今からは下り道だ。まず一気に坂下宿を抜けて関まで降りるぞ」
長兵衛が驚いた顔で諌めた。
「それは無茶だ。距離はここから坂下を抜けて関までたった二里だが、背に人を担いでの険阻な山道での急な下り坂は膝に来るから速くは歩けませぬぞ。悪いことは言わぬ。
病人はここに置いて行きなされ」
トセは頭を下げて長兵衛の好意に礼を言い、左門にも「お願いします」と一言声をか
けると、老母を背負ってさっさと坂井屋の店を出て先を行く。やむなく左門も長兵衛に手伝ってもらって伝蔵を背負うと、あわててトセの後を追った。
そこからの山道の苦労は言うまでもなく苦難に満ちたものだった。急峻な傾斜では先に降りた左門が、トセの手を引いて安全に坂を下る手助けをしながら山道を下った。
もう、こうなれば安濃の地まで行くしかない。
左門は、夕暮れまでにどこまで行けるか? と、考えながら山道を下っていた。
44、人の情け-4
片山神社を過ぎて周囲が灌木に覆われた暗い曲がりくねった坂道を下ると荒井谷の一里塚がある。そこから坂下の宿は半里もない。
左門はふと空を見た。
街道を覆う枝葉を縫って落ちてくる冷たい雨を頬に感じたのだ。
「休んで行くかね?」
左門が足を休めて振り向くと、トセが今にも倒れそうに喘ぎながら首を振った。
「その先の、岩屋観音さままで急ぎます。ご親切にありがとうございます」
何度も頭を下げたトセは、足を休めずに背に回した手を揺すって老母マキを上にずらせて足元を見つめ直し、左門の前に立って歩みを進めた。
確かに雨具を出すほどの雨でもない。左門は無言で続いたが、心の内ではトセのその揺るぎない意思の強さに驚嘆していた。
やがて、小雨の彼方に欅の大木に囲まれた、その岩屋観音への階段が見えてきた。
岩を抉った高さ十間(十八メ-トル)の巨大な洞穴に築かれた岩屋観音には、旅人の信仰を集め、道中の安全を祈願する阿弥陀如来、十一面観音、延命地蔵の三体の石仏が安置されている。その岩屋観音はまた、隣接する小滝から名をとって清滝観音とも呼ばれている。トセが先に急ぎ、左門が遅れて続いた。
背の老人は、すでにコト切れたのか吐く息が左門には感じられない。
トセがよろめきながら洞窟内の岩屋観音に駆け込んで軒下の縁に老母を下ろして荒い息を吐いてよろめいた。それを待っていたかのように堂の余手に潜んでいた浪人風の男が五人、肩を揺すって現れてトセ親子を取り囲んだ。
その中の数人の視線は後に続く左門をチラと見たが、丸腰で浪人を背負った若い左門になど興味がないように、トセを舐めるような目でみまわしている。
「やい、娘。飯はないか?」
「銭でもいいぞ!」
「銭がなければ……分かってるだろうな?」
トセは返事もせずに睨み返している。
そこに、老人を背負った左門が割り込んだ。
「おい。われわれが休むから、そこを退け!」
この横柄な左門の態度に、五人が怒った。
「なんだ,貴様は?」
「ケガをしたくなければ金を出せ!」
「ほう、借用書を書くかね?」
「なにを!」
血相変えた不精で汗くさい浪人の一人が、左門に殴りかかった瞬間に脛を蹴られて昏倒した。左門の蹴りが早すぎて何が起こったか誰にも分からない。
だだ、左門を殴り倒したい気持ちは一緒だから二番手の男が拳を振り上げ……そこまでだった。いずこから飛来したのか小粒の石つぶてが眉間に命中したから悲鳴を発して両手で額を抱えてうずくまる。次の男は何が何だか理解できない恐怖から思わず刀を引き抜いて居合抜きで無腰の若者の胴を真っ二つに切り裂いた……はずだった。しかし、そこには誰も居ない。切ったはずの若者は老人を背にしたまま二尺も横に飛び去り、自分の背後にはいつの間に現れたのか鳥追姿の女性が太い固そうな棒を持って立っている。
「ご浪人さん」
優しく呼びかけられて振り向くと、棒で思いっきり殴られて目から火花を散らすどこ
ろか血だらけになった崩れ落ちた。残った二人が怒り狂って刀を抜き、見境いなく女に切りかかったが、避けられて体勢が崩れたところを、老人を背負った若い男に尻を蹴られ、振り向いたところを背後から女に棒で殴られて血を噴いて卒倒した。
それでも五人の浪人は、よろめくきながらも立ち上がって反撃したが、男に蹴られ女
に殴られ、ついには息も絶え絶えに詫びて命乞いをするしかない。
「この病弱な母親を背負った孝行娘に、わらじ銭を出してやれ」
これが左門が彼らに出した和解案だった。
五人が渋ると容赦なく蹴倒したので、あわてて咲が止めに入った。
「もう人殺しは止めてください。今日はもう六人も蹴り殺したでしょ!」
いかにも本当のように咲が言い、五人を見て優しく語りかけた。
「あなたたち早く有り金出さないと、この人に蹴り殺されますよ」
血だらけの五人は先を争うように懐中の巾着からなけなしの金を出したが、銅銭、豆銀を集めても五人でたったの三朱と、一両にも満たない。
「あら、本当に貧しいのね?」
咲は、先刻からのやりとりを何処かで眺めていたらしい。
「これに懲りて追剥は止めてください。わたしのお握りと小銭を差し上げますから」
咲が左門を見た。左門も仕方なく自分のにぎり飯一食分を取り出した。
「これで一人一ケづつはあるだろ?」
五人が観音様にでも拝むように咲に手を合わせた。
左門の蹴りより、咲の太い棒の打撃の方がはるかに痛かったのを忘れている。
「これに懲りて、追剥は止めな」
左門が咲の口真似をして懐中の巾着をとり出して一両小判を5枚、立ったまま投げて汗を拭っている間に、五人の男達は夢中で一両と小銭と飯を分け合っている。
彼らは、「ここで解散だ」「縁があったら会おう」と頷き合って、左門と咲に頭を下げると、それぞれが握り飯を頬ばりながら足を引きずり小雨降る街道を逃げ散った。
トセが、岩屋観音の古びた軒下の縁に腰掛けた老母に竹筒の水を飲ませ、その竹筒を左門に背負われている伝蔵に手渡そうと声をかけたが返事はない。伝蔵は左門にしがみついたまま息耐えていたのだ。咲が手を合わせ、トセが泣いて伝蔵にしがみつき、咲が手を合わせた。
そこからの道のりは辛いものだった。
咲は預かっていた大小を左門に手渡すと、いつの間にか姿を消している。
伝蔵の遺体を背に負ったま腰に大小をたばさみながら、武士はやはり刀が腰にないと落ちつかないものだ、と悟っていた。
トセは言葉もなくすすり泣きながら道を急ぎ、左門は無言で後に続いた。
二人は、松阪屋で用意してくれた大きめの丈夫な油紙の大きめの雨具をすっぽりと背から覆い、氷雨降る山路をひたすら急ぎ下っていた。
山路を荷駄を積んだ栗毛の馬が喘ぎながら登って来るのが見えた。手綱を握る男の唄う馬子歌が小雨降る樹林を縫ってしみてゆく。
「手づな 片手の 浮雲暮らし 馬の鼻唄 通り雨~」
その声は、ともすれば沈みがちになる左門を勇気づけてくれた。
左門が柳生道場に通っていた頃に、仲間の一人が家で唄って父親に殴られた、という話をしながら教えてくれたから左門も唄えるのだが、やはり本物の馬子歌は格が違う。
たしか、「関の小満が関山あ通い、月に雪駄が二十五足」というのもあった。
今から三十年ほど前のことだった。関宿・山田屋の養女小満が十八歳の初秋、馬子に扮して亀山城下に潜り、実父を殺した小林軍太夫を討ち取って仇討ちの本懐を遂げた。
小満は、それまでの数年間、雨の日も風の日も関から亀山の剣術道場に通って腕を磨いたという。
その小満は左門が七歳のとき、三十六歳で病死している。その話は美談として寺小屋で聞いた。
木の間越しの眼下はるかに鈴鹿川を見て曲がりくねった山道を下ると、東海道で江戸から四十八番目の坂下の宿にたどり着く。
法安寺の長い白塀を越えると街道の両側に賑やかに旅籠や店々が立ち並び、往来する旅人を誘い込む。
「休んで行くかね?」
足運びが危ういトセに並んだ左門が声をかけると、トセが気丈に答えた。
「ありがとうごぜえます。も少し歩けます」
トセは歩みを緩めずに、そのまま脇本陣の小竹屋、本陣の大竹屋、梅屋などの豪勢な門構えを横目に見て、そのまま歩みを止めずに坂下の宿を抜けた。左門はトセを気遣いながら歩調を合わせて会話のできる距離で歩いたが、会話はない。
民家もまばらな沓掛の部落を越えると、弁天一里塚の橋を渡り、街道の右に見えた鈴鹿川の流れが左に変わると、鬱蒼とした樹木の暗い道が終わって景観が変わる。
雨もやみ雲間から陽がさしたこともあって、眼下に広大な原野がひらけていた。
やがて、大和と伊賀街道への西追分の交差路がある。
「もう一息です」
トセが自分を奮い立たすように言って初めて笑顔を見せた。
45、人の情け-5
トセが道を越えながら右への道を指さして、すぐ横を歩く左門に言った。
「ここから奈良に向かって、出掛けたです」
左門が頷くと、黙っているのが辛いのか、トセが堰を切ったように話し始めた。
「ここからが関宿です」
東海道の関宿は江戸から四十七番目の宿場町は二階建てが多く軒を並べ、虫かご窓や格子、庇の下の幕板や漆喰の壁には、さまざまな細工や工夫が凝らされていて旅人の目を楽しませてくれる。
「少し休んでゆくかね?」
「歩くのは厭いませんが、よろしければ……」
「どこで休むかね?」
「そこの地蔵院先の一服茶屋で、名物の白玉だんごを一度だけ食べてみたいのです」
左門が馬子歌で思い出した旅籠・山田屋は、小満の仇討ちで知られるだけに往来の旅人が立ち寄ったり覗いたりで賑わっていた。
その旅籠のほぼ向かい側に地蔵院がある。
左門とトセが、行基上人開創による地蔵院に立ち寄り、本堂の伽藍に向かうと、トセ
の背から老母が「おろして」と言った。左門は遺体を背に拝み、トセは老母と手を取り合って往路には旅路の無事を祈った地蔵尊に向かって、願い通りの大和路の帰路に逝った伝蔵のことを報告し、併せて冥土の旅路への安堵を祈願して手を合わせた。
そのとき、トセに肩を支えられた老母がか細い声で言ったのを左門が聞いた。
「ありがとうごぜえました。わしも、もう思い残すことはねえです」
トセが老母の肩を抱き、左門は遺体を背にしたまま、境内を出て数軒先の茶店に入った。
「いらっしゃい!」
茶店のあるじが左門の背の遺体に気づいて、怯えた目で一行を見た。
それに気づいたトセが言った。
「旅の帰りに倒れましただが、どうしてもここに寄りたくて……」
この一言で、あるじが納得したように頷きトセに注文を聞いた。
「白玉だんご,三人分でいいですか? お一人二個三文ですが」
「お願いします」
遺体を背負ったままの左門は、立ったまま白玉だんごを味わった。
ほどよい甘さの粒あん入り米粉だんごに、渋みのある緑茶がよく合った。
「おいしいねえ。じっちゃんにも食べさせたかったねえ」
皺だらけの顔をくしゃくしゃにして老母マキが口を動かしている。
トセも長年の夢が叶ったのと、老母が喜んでくれたのが嬉しいようだった。
「ここからだと、暗くなる前に連部(つらべ)まで行けます」
お茶も飲んで元気をとり戻したトセが左門に言い、老母を背にして立ち上がった。
「もうすぐですからね」
しかし、そこからが遠かった。
村の森が闇空に黒く盛り上がっているのだが、そこから歩いても歩いても辿りつけない。
安濃の連部村にたどり着いた時は、すでに日暮れていた。用意した提灯の灯で足元のぬかるみを避け、しばらく細い道を歩いたときトセが足を止めた。
「あら?」
「なにか変だねえ?」
トセの背の老母も、家を見て何か異常に気付いたらしい。
「雨戸も開いてるし、トセ、誰かいるような気がしないかい?」
「まさか?」
二人の戸惑いを感じた左門がトセに聞いた。
「どうした?」
「雨戸は閉めたまま誰もいないはずの家に、誰かがいるのです」
「行けば分かるさ。近所の人は?」
「近所の人は家には上がりません。もしかしたら、鬼の権蔵一家かも?」
近づくに従って、恐怖で足がすくむのか歩みが進まず顔色も冴えない。
百匁ロウソクの火が灯り、障子には何人もの人影が映り酒宴なのか騒がしい賑わいが遠くまで漏れて来る。
左門が先に立って、家の引き戸を開いて入って土間に立った。
中で車座になって丁半バクチに興じていた五人の男たちがいっせいに左門を見た。
空になった酒つぼや残飯が乱雑に転がって、異様な臭いがこもっている。
「代貸しのヤス兄い、変なのが来やしたぜ」
ヤスと呼ばれた髭面の男が、ツボを振る手を休めて振り向いた。
「なんだ、てめえは?」
「ここは、この背中で眠っている伝蔵さんの家じゃないのかね?」
左門の背後から顔を出したトセが老母を背から下ろして叫ぶ。
「出てってください。ここは、わたしらの家です!」
老母マキも続いた。
「おめえら博徒には散々苦しめられた。もう我慢ならねえだ」
「うるせえ、梅干しばばあ。そこの若えのも聞いときな。このあばら家はな。貸した金
のカタに鬼の権蔵一家が頂いた。だが、まだ利子だけで元金の分が足りねえ。トせが帰って来たら首に縄を巻いて連れて来い、というのが鬼の権蔵親分のご命令だ」
「そんな無法が通ると思うのか?」
「おう、いいこと言うじゃねえか。すんなり通らねえから無理して通すのさ」
左門は無言でトセに背を向けると、トセと老母のマキが伝蔵を抱え下ろしてたたきの
上に仰向けにして横たえた。左門はその背から油紙に包んだ風呂敷包みを外し、自分のだけを背に斜めに背負って旅支度をして、立ち上がった。
「なんだ、伝蔵ジジイはお陀仏か?」
「うちの人は、おめえらのいじめで苦しんで死んだだ」
「冗談言うな。お伊勢参りかどこかに勝手に出掛けて死にやがって!」
そこで左門が口を開いた。
「ならば、拙者が貴様らゴミ共を叩き出してやる」
「若ぞう、舐めるなよ!」
ヤスと呼ばれた男が脇差しを抜いて斬りかかって来た。
左門は避けるでもなく刀を抜いて、素早く刀を横に振って男の片膝を浅く斬った。
「刃向かうヤツは容赦なく斬るぞ!」
膝から血を噴いて土間に転がり落ちて呻くヤスという男を尻目に、一瞬で刀を鞘に収めた左門が男たちを睨んだ。
「うるせえ!」
次の男が斬りかかってくるより早く、汚れ草鞋のまま畳の上に躍り上がった左門は、
狭い部屋だから瞬く間に峰打ちで残った四人を叩き倒した。襖が倒れ、行灯の灯が揺らぎ鴨居が傷つく。皮膚が裂けたり腕や肩、足の骨などが砕けた男もいて、悲鳴を上げてのたうち回るだけで立ち上がることも出来ない。中には口を開けたまま気絶したのもいる。
土間に降りた左門は、髭面のヤスという男の喉を左手で締め上げて吠えた。
「てめえらがこの家を使って飲み食いした家賃と薪代に灯明料で借金は帳消しだ。それに、村の人たちにも無理やり金を貸しては、あこぎな取立てをしてたはずだ」
「無理には貸したりしてねえ。借りてえやつに貸しただけだ」
「うるさい! 違法な証文を全部破いてやる。貴様らの親玉のところに連れてけ!」
「わ、分かった。死んじゃうから、喉の手を離してくれ」
「よし。これで傷口を縛っておけ」
汗まみれの手拭いをヤスに手渡した左門が、トセに言った。
「畳を汚して済まなかった。伝蔵さんを布団に寝かせたら、家は母上さまに任せてすぐ庄屋に行き、名主と村の有力者も一人連れて後から来てくれ。こいつらの親分の権蔵から村中の証文を取り返すために証人が必要なのだ。一切の責任はこの大原左門が負う」
老母にも言った。
「仏さんのそばで留守番をしてくれ。すぐトセさんを返すから」
左門は、気絶している男は当て身で起こし、傷だらけの舎弟分に抱えられたヤスを先に五人の男たちを前に立たせて外に出た。
遺体を背負っての歩行では汗をかいていた身も、今は夜寒が身に沁みる。左門は、すぐ訪れる冬の寒さと明日の我が身を思って首をすくめた。
折しも、流れる雲間に片割れ月が輝き、鈴虫の鳴く音が秋の気配を深めている。