第一章

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獲 物

花見正樹

第一章

1、死体発見

最近、新聞紙上などで、「地球環境保護」、「自然環境破壊反対」などというフレーズがよく目に入る。
数年前、環境庁の白書による「梓(あづさ)川流域魚類生態調査」なる記事がY新聞朝刊のコラムに掲載されていた。その記事を目にした渓流釣りマニアであれば、その文中の、「すでに絶滅していたと信じられていた天然の本州イワナが、養殖の放流イワナや、他の淡水魚のすべてを駆逐して、明神橋上流にイワナ王国を築いていた」ことを知り、それを嬉しく思ったに違いない。
清冽な源流に棲む天然イワナは、刺し身や天プラ、塩焼きにしても美味、グルメ通ならずともこれ以上の贅沢はない。釣ってよし食べてよしの本州イワナが清流に群れているとなれば、全国から釣り人が殺到し、たちまち釣り尽くして絶滅させるのは明らか、ということで禁漁区が制定された。
こうして、梓川上流のイワナ王国は保護され、平和な生活を維持できるようになっていた。
それから数年……再び、予備的な生態調査が実施された。
そのためには、資料収集と調査のためのアルバイト学生が必要になる。ここに登場する北島孝平もその一人、栃木県出身で一浪してS大の理学部入り、今は松本市内の風呂なしトイレ共同使用・六畳一間のアパート住まい。二年生だが勉学にも励むことなく遊び仲間に誘われるまま酒を飲み、スナック、カラオケ、麻雀にと忙しく、ごく平凡な学生生活を送っていた。
孝平にとってバイトの動機は、遊興費と飲み代、とびっきり安い中古バイクのローン代稼ぎにと、お金欲しさが第一の理由。それに加えて、所属するゼミの教授への義理立てと卒論の便宜をはかってもらう下心などが第二の理由で、自然保護などという大それた理念などはゴマ粒ほどもない。
孝平の仕事は、県の水産試験所から派遣された形の身分証明書をもつ「水棲物生態調査員」の肩書だが、実際の仕事は、このK村周辺の谷や小沢の水や水棲昆虫を収集するだけで、リュックの中には大小のラベル付きポリ瓶がいっぱい詰まっている。
ラベルには、収集日、内容物、場所、天候、水温などを記入しなければならず、結構手間のかかる仕事だった。魚類の多い少ないは、水質、水温、流量と餌になる水棲昆虫の生息密度で分かる。
それにしても、孝平はツイてない男だった。谷底で溺死体に遭遇したのだ。
この日も、昼まで寝たい怠け癖を我慢して、早朝5時半にセットしたタイマーに叩き起こされ、カップラーメンを掻き込み、買い置きのハンバーガーに水筒、水の収集用ポリ瓶、救急用医薬品などを詰めたリュックを担いで愛用のバイクに飛び乗り、颯爽と風を切って、梓川沿いに西南に向かう国道278号線を疾走し、新島々を右折して目指す安曇野方面に向かって山道を走り、鬱蒼(うっそう)とした沢沿いの林道を進むのだが、埋もれ木や倒木で道が塞がれて通行不能となり、途中でバイクを乗り捨てて、さらに歩いて今日の予定地近くまで辿り着いた時は、全身が汗でびしょ濡れ、針葉樹の森を抜ける沢風が快く汗ばんだ体を冷やしてくれる。
谷間の水を採取すべく、スポーツシューズの紐を締めなおして、やっと見つけた崖道をゆっくりと降ると、瀬音が一段と高くなり水しぶきが朝の冷気と共に冷たく顔にしぶく。
そこで孝平は、倒れている男を見た。
男は、水際の岩盤上に突っ伏して腰から下を流れに委ね、早瀬に揺れる脚部から先は水に中に没しているのか見えていない。r孝平は、男がまだ生きていると思って声を掛けて体を揺すったが、返事はなく、顔を見ると溺死体特有の水膨れと、瞳孔を見た瞬間、紛れもない死体と知った。孝平は、驚愕(きょうがく)と恐怖で足が竦み、体中の震えが止まらなくなった。気を取り直して、すぐ警察への連絡をと、震える手で携帯で110番通報を試みたが谷底からは電波も不通だった。
崖上に戻るべく、いま降りたばかりの崖道を登ったが焦って滑落しそうになる。ようやく林に戻り、すぐ通話を試みたがここも山蔭なのか電波が通じない。こうなれば通話できる場所まで移動するしかない。孝平は必死に走ってバイクを置いてある地点まで辿り着き、そこでも電話は不通と確かめてからバイクを飛ばして林道を抜け、公道との合流地点で通話を試みると、ようやく110番で警察との連絡がついた。
その場で待つこと小1時間、やっとパトカー2台とワゴンタイプの警察車両1台が集結した。私服刑事2名、作業用制服で運転手兼務の若い警官3名、検視官や写真班に交じって、孝平とも顔なじみの中宮清三という地元赤岩村の駐在巡査長が制服で参加していて総勢9名、どこでどう伝わったのか、たかが水死体なのに大袈裟すぎる、と孝平は思った。
「やはり、学生さんが発見者だったな」

駐在の中宮巡査長の表情には、死体の主に心当たりがあるという確信感が漂っていた。
孝平がこの地区に来て初めて会ったのが、地元出身という初老のこの駐在の中宮巡査で、地形や沢の名を知りたい時は、いままで何度も世話になっている。
ここでは短い挨拶だけで、バイクを木陰に置き、孝平は、先導するパトカーの助手席に乗せられた。パトカーは狭い林道を疾駆して現場に急いだ。
「この先は、車では無理ですよ」
「大丈夫、林道は車が走る道だからな」
孝平の危惧を運転する警官が軽くいなし、何の躊躇(ためらい)もなく狭い林道に乗り入れ、雑草や細木の枝葉を薙ぎ払って進み、倒木があると全員総出で片付け、狭い林道を疾駆して孝平の案内する崖上に着いた。
崖上から谷底を覗いて、死体のある岩場に続く下流が5坪ほどの砂利場であることを確認した作業用制服の若い警官が、慣れた手つきで近くにあるブナの幹にロープを巻きつけた。それを待っていたように、同じ作業服の警官が、「お先に!」と言い、検視用機材などを背負って器用に下降してゆく。写真班や私服の刑事、監察医なども白い軍手でロープを握って次々に谷底に降りて行く。
幹にロープを巻いた運転手兼任の若い警官が、孝平に白い軍手を手渡した。
「学生さん、あんたの番だ」
「ぼくも降りるんですか?」
「当たり前だ。第一発見者だからな」
その目には、第一発見者は犯人として疑うという警察特有の慣習が見えていた。
「ロープの経験なんてありません」
「下は小砂利だ。この高さなら落ちても脚部骨折程度で済むぞ」
「だったら、崖道を降りますよ。手袋は貰ってもいい?」
「いいさ、気をつけてな」
崖道を慎重に降りる孝平の視線の先に、死体収容用なのか、ロープに縛られた寝袋がゆっくりと下降するのが見えた。これで死体を上げるのか? あの男は何者だろう? 岸辺の岩場に降り立った孝平にも、この状況が現実として実感され緊張を高めた。

 

2、川漁師

死体の身元は、駐在の中宮巡査が顔見知りということで、
すぐ判明した。
山部留吉という赤岩村の山際の小屋に住む55歳の独身男で職業は川漁師、右足が不自由だったという。
 この男が他県から流れてこの地に住み着いたのは約30年前、その身元引受人になったのは、代々赤岩村の村長を続けていた当時七十を超えた老人の十八代松尾源兵衛で、松尾家は江戸時代から続く村名主の家柄だった。今は十八代亡き跡を長男の松太郎が十九代松尾源兵衛の世襲名と、無投票で村長の座を継いでいる。
ただ、留吉の過.去を知る先代の村長亡き今は、留吉の出生や過去を知る者は誰もいない。
その件については中宮巡査長も調べたが、先代の村長は黙して語らず、現村長は父親から何も聞いていないと言い、留吉の過去については何も明らかにならなかった。
駐在の中宮が孝平に話しかけた。
「わしが前に話した伝説の釣り名人ってえのは、この留吉さんのことだよ」
「すっかり忘れてました。そういえば・・・」
そのとき駐在は孝平に、あちこちの沢の水を採取していれば、「留吉さんとは必ずどこかで出会うだろう」と言ったのだが、孝平は、これまでに何故か一度も留吉とは出会ったことがない。したがって顔も知らず、その話もとうに忘れていた。
それが、このような形で出会うとは。これも何かの因縁かも知れない、と孝平は思った。
 留吉の死因は溺死、身体の傷は上流から流されて岩角に打ち付けられてできた傷とされ、検視は溺死ということで終わった。
 留吉の死体は、事件性なし、と断定されたことで解剖を免れ、警察のワゴン車で村まで運ばれることになった。作業が終わると、2台のパトカーは、樹林の隙間を巧みに探してUターンし、駐在と孝平と死体を載せたワゴン車と運転の警官を残して走り去った。
死体の運搬を務める作業用制服姿の運転手兼任の若い警官に、「村長宅に!」と行く先を告げ、ワゴン車はゆっくりと走り出した。
ワゴン車が車体を軋ませながら林道を下り始めると、駐在は死体の揺れを片手で押えなこのようながら孝平に言った。
駐在が、困惑したような口調で孝平に呟くように愚痴を言う。
「留吉さんの家には誰もいないし、道が狭くて車も入れない・・・とにかく、村長と相談するのが一番だな」
孝平には答えようもない。。運転の警官が聞い。
「留吉さんは独り者で親族もなく、住まいも山の斜面にある山小屋で、道は狭い上に雑草が深くて車はとても入れない」
「それで、村長の家で?」
「とにかく、村長と相談だ。行く先は刑事に伝えた」

林道と村道の合流点でワゴン車が停車したところで、中宮巡査長の携帯が鳴って、話が孝平にも筒抜けで聞こえた。
「委細は刑事から電話で聞いた。死体は留吉の家の麓にある加助の家に届けてくれ。そこからは村の若衆が担架で運ぶ。通夜は今日で明日は葬式、もう手配して動きだしている」
孝平にも運転手にもその内容は分かったが、孝平の役割はすでに終わっている。
林道の入り口の木陰にあるバイクを確認した孝平が、二人に挨拶を終えてワゴン車を降りたとき駐在が声をかけた。
「学生さん。加助とは知り合いかね?」
「口をきく程度ですが?」
「家には?」
「行ったことないです」
「だったら、バイクで付いてきな。腹も減っだろ」
ワゴン車が発進し、少しだけ迷った孝平が慌ててバイクを走らせた。
このまま村に寄らずにまっすぐ帰宅する手もあるが、学校もアパートも面白くない。それに、遅い午後になって空腹が辛い。
孝平は、食事の誘惑に負けてワゴン車の後を追った

3、加助の家

 窪川加助の家は山裾にあった。
 藁ぶき屋根の古びた平屋づくりの家ながら天井も高く、かつては立派な屋敷だったのが偲ばれる。
広い敷地内にいかにも農村の乗り物らしい軽トラックが7台ほどあり、消防団の法被(はっぴ)姿の若者が立ち働いている。
 警察のワゴン車と、それに追尾した孝平が到着すると、ひげ面の加助に続いて数人の若者が担架を手に駆け寄ってきた。
 風に乗って煮物の匂い孝平の鼻孔をくすぐり、空腹の腹が鳴った。
運転手兼任の若い警察官も地元出身なのか加助と親しく短い言葉で挨拶し、駐在の中宮巡査長は挨拶抜きで指示を出した。
「遺体はシェラフにくるまってる。そのまま運んでくれ」
 加助が若い衆に命じると、ワゴン車から運び出された留吉の遺体は、モスグリン色のシェラフに包まれたまま担架で運ばれ、草深い山道を登ってゆく。
そこで、いつも野良で挨拶する間柄の加助が孝平を見た。無精髭で年より老けて見えるがまだ三〇代半ば、事情はすでに知っているらしく、孝平の出現にも驚いていない。
「学生さん。とんだ災難だったな」
「いえ、そんなでも」
中宮巡査長が口を挟んだ。
「三人とも空腹だ。なにかあるかね?」
「いま炊き出しづくりの最中だ。中に入って勝手にやってくれ」
「お雅さんが?」
「かかあは留吉さんの小屋で通夜の準備、村の女衆が手伝ってくれてるだ」
「だったら、ついでに荷物運びも手伝うからな」
 勝手口から土間に入ると、4人の女衆が立ち働いていて、海苔を巻いた握り飯が山のように積まれ、香の物や焼き魚、煮物などをそれぞれの容器に詰めている最中だった。
「あら、学生さんも?」
孝平がこの春から、この村の駐在所を拠点に、周辺河川の水質検査をバイト仕事にしていることは村中に知れ渡っているらしい。
 加助が外から髭面の顔だけ見せて、作業中の女衆に告げた。
「こちらの三人が腹ペコらしいから食事を頼んます」
 その一言で目の前に充分な食べ物が並んだ。

 事情を知らない女衆の一人が制服の警官に挟まれて座った孝平をみて、気の毒そうな顔で言った。その口ぶりで孝平を贔屓しているのは明らかだった。
「学生さんが死体を発見したて聞いただが、疑いが早く晴れるといいね」

 駐在があわてて言った。
「この学生さんは犯人じゃないよ。あれは事故だったんだ」
 若い坂口という警官が、握り飯を頬張りながら女衆を見回して呟いたた。
「どうも、この村の女は、この学生さんに興味があるみたいだな」
中宮巡査長が
相槌を打つ。
「わしもそう思ってる」
孝平が
慌てて否定した。
「そんなある訳ないですよ」
孝平は
、自分に興味ありげな女衆の視線を避けるがように食事を済ませ、重い荷を詰めた篭(かご)を背負って先に表に出て二人を待った。
それにしても奇妙な事件だった。
警察の調べでは溺死となっているが、ベテランの川漁師が沢で溺れ死ぬなど、日常的に沢歩きをしている孝平には考えられないことだった。しかも、昨日は確かに山に雨は降ったが、一気に水量が増えての鉄砲水に逃げ遅れての溺死などあり得ない。仮ににわか豪雨に襲われたとしても、崖を登る逃げ道ぐらいは随所に用意してあるはずだ。孝平でさえ沢に入る時はその程度の備えは身に着けている。しかし鑑識医の調書に溺死とある以上、何も問題はない。

 

4、留吉の山小屋

留吉の死体はすでに加助の指揮で、村の若い衆によって留吉の山小屋に運ばれていた。
食事を終えた三人は、飲食物や食器の入った重い荷の篭を背負って、急勾配の曲がりくねった草深い坂道を登りはじめたが、若い孝平といえども楽ではない。たちまち体中が汗ばみ、額の汗はタオルで拭いてもすぐに吹き出し荒い息に気づいたのか、前を行く初老の中西駐在が振り向いて、孝平に声をかけた。その声は微塵も乱れていない。
「学生さん。すこし休むかい?」
「大丈夫です!」
中宮巡査長も、先を行く運転手兼業の坂口という若い警官も足取り軽く汗もない。二人は歩みを弛めて孝平を待った。孝平が追いつくと坂口が孝平に笑顔を向けた。
「もう一頑張りだからな」
中宮巡査長が天を仰いで呟いた。低く流れる雲が空を覆い風も出ている。
「留吉さんの涙雨が来るようだな」
あばら家という表現が相応しい留吉の山小屋は、奥穂高山麓に位置するK村の村はずれの山際に、ぽつりと一軒だけ立っていた。杉皮矢根に石を載せただけのバラック造りだが、家の中は土間も広く、土間から続く囲炉裏のある八畳ほどの作業部屋と奥に十畳の居間があり、留吉はここで寝起きしていたと思われる。その部屋に白木の棺が用意されていて、数人の若者が留吉の遺体を裸にして白衣を着せてから棺に移して多量のドライアイスを詰めていた。棺の前には一対のり、加助が提供した留吉の写真を元に額入りの遺影を作成すべく、松本市内の写真館まで村人が車で出かけたという。台所では女衆が料理の仕上げ中らしく部屋には煮物や煮魚の匂いも立ち込めていた。
 村人が徐々に集まり始めた頃、屋根を打つ雨の音が聞えてきた。
初秋の山の天候が急変するのは常識だから驚かないが、孝平にはどうしても川漁師の溺死というものが納得できなかった。素人の孝平でさえ、谷に降りる時は逃げ道を確保して天候の急変に備えている。突然の豪雨での増水による鉄砲水は避けようもないが、ベテランの川漁師なら雲の動きで降雨の有無を知り沢を出るはず、これに疑問の余地はない。
案の定、通夜の話題は留吉の死を巡っての疑念が続出し、駐在の中宮巡査長が検視時の説明に大わらわになっている。
それでも、すでに70歳を超えた村長の十九代松尾源兵衛が、村で唯一の浄土宗末寺の老住職を伴って現れると、通夜らしい雰囲気になり、読経が始まる頃には二間の部屋にぎっしりと村人が座っていて立錐の余地もない。
僧の読む読経に合わせて経を詠む村人もいて通夜の儀式は滞りなく終わり、集まった村人の楽しみである故人を偲ぶ飲み会が始まった。
それに先立って、村長が警察から得た情報を元に、留吉の死について説明した。
その説明には孝平の知らないことも多く、孝平は留吉という川漁師の謎めいた部分に興味が湧くのを感じていた。
村長の話によると、留吉の前身は、身元引受人として留吉を村に住まわせた先代村長の父・18代松尾源兵衛だけが知っていて、それは息子にも話すことはなかったという。
 通夜の酒は、ふんだんにあった。留吉が生前、川漁で獲た岩魚(いわな)や山女(やまめ)の納入先である温泉場の料亭や旅館などから、ひっきりなしにバイク便などで酒や供物が届くからだ。

 

 5、死因詮索

 五十半ばで逝った留吉は小柄な男ではあったが俊敏で、その死を知った村人達は一様に驚きの表情を隠さなかった。
「あの、留吉さんが川で死ぬなんてな・・・」
通夜の客の様々な憶測を整理して考えると、孝平の頭の中では次のような図式が現れてくる。
長野県はおろか、中部地方の高地にある山深い谷の本支流を自分の庭のように熟知していた留吉の死は、どう考えても不自然だった。孝平はその死体を発見した時の状況を思い起してみた。
早朝、村から見て北に位置する金竜山の中腹を源流として梓川に注ぐ、鎌が沢上流で発見した時の驚きが静まった今、冷静に考えれば不審なことだらけなのだ。
留吉の死体は、流心から外れたゆるやかなカーブの瀬脇の岩場に打ち上げられ、うつ伏せの状態で倒れていた。着衣は見るかげもなくぼろぼろに破れていた。その着衣は、川職漁師独特の膝から下が細い「猿っぱかま」という山袴で、それも原型を止どめぬほどに破れて全身のあちこちで肉が裂け、太股から脚部にかけては骨が剥き出しになっていた。警察医の検視の結果、かなりの水を飲んでいることから直接の死因は溺死と判明した。
その前日の午後、豪雨が周辺の村や山々を襲っている。
獲物を求めて上流に遡行していた留吉が、天候の急変に気づくのが遅れ、濁流に呑まれたとも考えられた。だとしたら、岩角に打たれて傷つきながら流されて力尽きたのか。
鎌が沢上流は、足場の悪い懸崖に包まれていて、両岸上部を樹木が覆っていて晴れた日でも、暗い夕暮れを思わせる陰湿な谷間だった。
村人の話によれば、留吉の死体があった場所から源流に辿り着くためには、幾つかの滝を高巻きして登はんしなければならず、職漁師といえども滅多に近寄ることのない難所だという。それでも、渓流マニアの釣り人が林道の奥に車を入れ、夜明けと共に谷に下りて鎌が沢上流に入ったりする。その結果果、車を残したまま行方不明になったり、遭難事故で死んだり、命に別状なくても神経に異常をきたしたりと、まともに帰った者はいない。
鎌ヶ沢上流には魔の淵と呼ばれる滝下の深い淵があり、そこに漁した者は必ず祟られるといわれ、事実、変死したり狂人になったりした例は、昔から沢山あるとも村人は言う。
この周辺の村人達は、幼い頃から鎌が沢源流への出入りを禁じられて育っていた。
留吉は、他郷から移り住んだ職漁師だが、当然、その魔の淵についての噂は知っていたものと思われる。山奥に豪雨がると、谷は周辺の山の水を一気に受けてもの凄い量に増水し、濁流は太い木までを根こそぎ抱え込んで轟音を立てて流し落とす。この鉄砲水ともコモマクリとも呼ばれる増水は、異様な音が聞こえてからわずか数分で、大きな壁が押し寄せるように迫るが、その数分間が命の分かれ目になる。
山深い谷間を漁場としていた留吉が、天候の予測を誤り、豪雨で増水した沢で鉄砲水に流されることなどあり得るのか?  検視に立ち会った警察医が首をひねった。
「この傷は岩に当たったもんでもない。獣にでも噛まれたのか?」
信濃の山間部には、さまざまな獣が棲息し獲物を求めている。
「そうだな、冬眠前の子連れ熊な。ら、大好物の栗やブドウ、沢ガニやイワナなんど求めて谷筋に入る。留吉とバッタリ会い、衝動的に襲ったとも考えられるな」
沢に入る前に孝平は、初秋に餌を求める獣の恐ろしさを村人から聞いて、腰には熊避けの鈴をぶら下げ、できるだけ腰を振りながら歩いている。
「飢えた山犬の群れにやられたのか?」
「凶暴な手負いの猪ノコウが林ん中の水場で「ヌタ場」で、虫除けに泥を塗ってるとこにでも、留吉が接近したかな?」
猪も、怒らすと人を襲う。
「あれはな、鎌が沢のヌシに殺られたに違えねえ」
酒くさい息を吐きながら、村の古老が孝平に耳打ちした。その古老は、一瞬だけ、酔った目で遠くを見つめるような視線を投げたが、帰り際に、恐ろしい夢でも思い出したかのように孝平に向かって肩をすくめた。
「あんたは、漁なんかやるでねえぞ」
よろめきながら下駄を履き、誰にともなく、「殺生やる人間が死ぬときや、みな、あんなもんだ」
古老は吐き捨てるように呟いて、傘の下で提灯片手に雨の降る闇の中に消えて行った。

 

第二章 

 1、アリバイ

 奥穂高山麓の山際にある留吉のあばら家の板壁の隙間からは、初秋の冷たい夜風が容赦なく吹き込んで肌を刺す。その寒さを吹き飛ばすように、急ぎ支度の通夜は大賑わいだった。
 その留吉の家には、電気も水道もなく、水は井戸水を大きな水ガメに溜め、灯りは獣重油くさい壁掛けランプがあちこちにあり、灯が風で揺れるから、人の表情の陰影が絶えず不気味に揺らいでいる。
 この通夜の席に、死体発見者でけという孝平がいいるのは不自然だった。だが、誰もそれを気にしている様子もない。それは、村人の殆どが留吉とは没交渉で口も利いたことがない人が殆どだったからだ。なぜ、死んだ留吉と縁もゆかりもない人々が、かくも盛大に集まっているのか。それには、それなりの理由だがある。
 酒があるからだ。
 酒があるうちは、寒かろうが暑かろうが誰も帰らない。
 酒は、留吉の獲物を納めていた松本市内の料亭や近隣の温泉場のホテルなどからの差し入れだった。留吉の顧客は殆どが村長の紹介だったから、村長がいち早く留吉の顧客に訃報を電話すると、村長の思惑通りに酒もビールも香典もたちまちバイク便で村長の家に届けられて、通夜と葬式の賄いには充分に間に合ってお釣りが出て、村長のお小遣いになる。そこで村長は早々と「村民は香典無用・飲み放題」と組長に布告し、その噂はすぐ村中に伝わって、人が人をを呼んでいた。
「香典なしで、ただ酒が飲めるだぞ」
 こうなると誘い合って人は集まる。こうして、日頃は留吉と全く無縁の村人たちが集まって、「飲めや歌えや」の賑やかな通夜になっていた。
 加助が孝平の持つ湯飲み茶碗に、地元の銘酒・秀峰アルプス正宗の一升瓶から大吟醸を注いだ。日頃は焼酎のお湯割りしか飲んでいない孝平にとって、この酒は旨すぎて悪酔いしそうな予感がする。孝平は、喉を鳴らして一気に飲み干し、茶碗を加助の前に突き出した。加助が呆れながら酒を注いだ。
「飲みっぷりはいいが、今日はバイクは無理だな。おらが家へ泊ってくか?」
 この一言で、(悪酔いしたってかまうもんか)と、孝平の腹が据わった。
 孝平は加助には恩義がある。
 水質検査の資料収集移動中にバイクの車輪がぬかるみでスリップして田の中に横転した時に、たまたま近くで野良仕事をしていた髭面で30代と思しき農夫が助けに来てくれて、それ以来、野良で会えば、バイクを止めて立ち話をする仲になっていた。その農が加助だった。
 人口の少ない小さな村だけに、ここでは苗字を必要としない。誰もが下の名前か屋号だけで呼び合っていて、苗字などは全く必要としていない。加助の苗字が窪川であることも、先刻、門に掲げた表札を見て知ったのだ。
 大学の授業の一環としてとアルバイトを兼ねた清流の水質検査で、この村に出入りしている孝平も、この村では未だに名前で呼ばれたことがない。加助も孝平を「学生さん」と呼ぶ。
 その加助が、葬儀委員長である松尾村長の裏方として、留吉の通夜と葬儀を仕切っていた。
 孝平が通夜の席で村人や加助から聞いた話を整理してみたが、ますます頭の中が混乱するだけで結論は出ない。
 獲物を求めて上流に遡行していた留吉が、天候の急変に気づくのが遅れ、濁流に呑まれたとも考えられた。岩角に打たれ、傷ついて流されながら力つきたのか。それにしては傷が酷すぎる。
 鎌が沢上流は、足場の悪い懸崖に包まれていて、両岸上部を樹木が覆い、晴れた日でも暗い夕暮れを思わせる陰湿な谷間だという。その源流に辿り着くためには幾つかの滝を高巻きして登はんしなければならず、職漁師といえども滅多に近寄ることのない難所だった。それでも、渓流マニアの釣り人が林道の奥に車を乗り入れ、夜明けと共に谷に下りて鎌が沢上流に入ったりする。その結果、車を残したまま行方不明、、遭難、事故、神経異常などでまともに帰った者はいない。
 鎌ヶ沢上流には魔の淵と呼ばれる滝下の深い淵があり、そこに漁した者は必ず祟られるといわれ、事実、変死したり狂人になったりした例は、昔から沢山あると土地の人はいう。
 この周辺の村人達は、幼い頃から鎌が沢源流への出入りを禁じられて育っていた。
 留吉は、他郷から移り住んだ職漁師だが、当然、その魔の淵についての噂は知っていたものと思われる。山奥に豪雨があると、谷は周辺の山の水を一気に受けて、もの凄い量に増水し、濁流は太い木までを根こそぎ抱え込んで轟音を立てて流し落とす。この鉄砲水ともコモマクリとも呼ばれる増水は、異様な音が聞こえてからわずか数分で、大きな水の壁が押し寄せるが、その数分間が命の分かれ目になる。
 さらに、信濃の山間部には、さまざまな獣が棲息しているだけに、それに襲われたとも考えられる。熊が出ることは孝平も知っていて、子連れ熊の恐ろしさも村人から聞いて、腰には熊避けの鈴をぶら下げ、できるだけ腰を振って歩いている。
 それにしても、通夜の客はよく飲んだ。
 通夜の客の大半は、乗ってきた車を麓の加助の家の庭に駐めてあり、そのまま運転して帰るのか、家族が迎えに来るのか、この留吉の家には余分な夜具はないから寒さに耐えられない。、それとも加助の家に泊まって酔いを醒ましてから帰るのか、家族が迎えに来るのか、酔っ払い運転で帰るのか、それらは誰も詮索しない。
 それを取り締まるべき警察官の坂口は、僧の読経が終わるとすぐ帰り、駐在の中宮巡は加助の家に泊まる気らしく、自分もしたたかに飲んでいて、酒帯び運転を取り締まる気などさらさらなく、そのような状況にもない。
その中宮巡査が、孝平に語りかけた。
 かなり酒が入っているはずだが地が黒いから顔色には出ない。しかも、滑舌は酔いで怪しいのに、孝平をお前呼ばわりして、しっかりと警察官口調になっている。これは職業病とでもいうべきか。
「警察ではな、人が死ぬと、まず、第一発見者を犯人とみるんだ。知ってるか?」
「まさかオレのことも?」
「お前も例外じゃない。通報した時、お前の住所も聞かれただろ?」
「たしかに・・・」
「本署からの指示で、近くの交番から警官が急行してな。お前のアリバイを調べたんだ」
「どうやって?」
「聞き込みさ。左隣の独身男は出勤して不在だったが、右隣の幼児がいる奥さんが、お前がドアーの鍵を閉めて出てったた時刻を朧げに記憶していたんだ。それに、屋根付き駐輪場からお前がバイクを引き出すのを、一階に住む管理人が見ていた。それで、マルタ(遺体)の死亡時刻には、お前がまだ自分の部屋にいたことが証明されて、アリバイが成立したんだ」
「アタマに来た!」
 一時的にしろ犯人扱いされた怒りと半分は冗談で、右拳でテーブルを叩いた孝平だが、生憎とそこにはステンレス製のスプーンが上向きに横たわっていて、手の痛みが脳天にまで響いた。それを見た中宮巡査が、真顔で「フォークじゃなくて良かったな」と孝平を慰めた.

 

 

2、野ヒバリ

「酒は明日も届くぞ。まだ来ていない大口が何軒か残ってるからな」
 早く引き上げた村長の一言が利いていて、通夜客の殆どが明日の葬儀にも参加すると言っている。
 手抜きの読経を終えた老僧も酒が好きらしく飲むだけ飲んで、加助が渡した前払いの僅かなお布施を懐中に、ご機嫌の千鳥足で加助の家に向かって右手に懐中電灯、左手に傘を持ち、迎えに来た若い修行僧に支えられて帰路についた。帰路といっても歩くのは加助の家までで、そこからは若い僧の運転で車だからさほどの難儀でもない。
 それからまた宴会は続いた。
 夜が更けて酒も残り少なくなったが、まだ誰も帰ろうとしない。皆、駐在の中宮巡査長が帰るのを待っているのだ。
 その駐在の中宮巡査長を息子が迎えに来た。
 未練たらしく立ち上がった中宮巡査長は、立ったまま茶碗酒を飲み干してから土間に下り、息子の肩を借りてよろめきながら戸口に向かい、そこで振り向き呂律の回らない口調で喚いた。
「みなみなさん。飲んだら飲むな、いや、乗るな、ですぞ」
 村で唯一の警察機構の構成員である駐在さんが姿を消すと、暫くして村人が次々に帰り始めた。
 加助が声をかけた。
「酔っ払い運転はやめて、おれが家に泊まってけ。息子に準備させてあるからな」
 これに応じたものが一人もいない。だからといって法律を遵守しないとも言えない。なにも証拠がないからだ。
 村人達はみな飲み食いに満足していて、隙間っ風の冷たいあばら家に長居は無用とばかりにいっせいに帰路に就く。ちょうど雨が止み、懐中電灯と提灯の灯りの列が、曲がりくねった山道を下って加助の家まで続いていた。その道は雑木や雑草に包まれているだけに、灯りが見え隠れして、上から眺めると、間が抜けた狐の嫁入りの列のようでもあった。
 孝平は、囲炉裏を囲んで残った村人の輪から外れて、板壁に寄り掛かって何を思うでもなく、酔いの揺れに身を任せてぼんやりと周囲を眺めていた。
 八月の末とはいえ暦の上ではすでに秋、夜が更けて風雨が強まると、裏庭の柿の枝葉が板壁を叩き、石を乗せた杉皮ぶきの屋根が断続的にはじけ、あばら家がかすかな悲鳴を上げてきしむのが、板壁を通して孝平にも伝わってくる。雨は小降りになった様子だが、夜が更けるにつれて寒さが身に沁みる。
 土間の壁の掛け金具には、手作りの釣り竿、三本刃のヤス、スキなどの農具、それに冬は猟をしていたのか黒光りした旧式の猟銃などが掛けてある。
 急ぎ支度だが大賑わいだった留吉の通夜はこうして幕を閉じ、残った女衆五、六人ほどが、加助の女房の指図でてきぱきと後片付けを始めた。明日の葬儀のためにも、大雑把な掃除と準備ぐらいは必用なのだ。
 その女衆の亭主共は、自分だけ帰るわけにも行かず、残り酒を集めて囲炉裏を囲み、加助を中心に改めて宴会を始めている。
 孝平は、土間の隅にある素朴な台所で汲み置きの水で洗い物をしている加助の妻の横顔を、酔った目で眺めていた。村人から「お雅さん」と親しく呼ばれている加助の妻の名が「雅子」であることを孝平は、先ほど中宮巡査長と酒を酌み交わしていて、さり気なく聞いて知った。
 孝平は、その加助の妻にも、のど元のホクロにも見覚えがある。その女性が加助の妻だと知ったのは、この通夜の席に参加してからだった。
 ただ、加助の妻は、孝平のことを忘れたのか、知らないのか、無視しているのか、視線すら合わせようともしない。ただ一度、すれ違ったときに「今晩は・・・」と、お互いに挨拶しただけで、何の感情も表わしていない。
 あるいは、人違いなのか。世の中には自分と似た人が三人はいると聞く。のど元のホクロも偶然かも知れない。
 一カ月ほど前、まだ夏が野山を包んでいる晴れた日の暑い午後、孝平は、農道から土手の斜面の深い草の陰で、コンビニで購入したサンドイッチとカフェオレの簡単な昼食をとり終えて、草むらに寝そべって野ヒバリのさえずりを聞いていた。
 一般の常識では、ヒバリの生態圏は標高八百メートルまでとなっているが、ここは標高約千メ?トル、ヒバリでさえ生活のために努力して生活の場を広げている。しかも、ヒバリは好天であるほど高く飛ぶという。
 孝平は、目的もなく生きている自堕落な自分がヒバリより劣る存在であるように感じて辛かった。S大のいま所属している学部をを受けたのも単に競争率が低かっただけだった。麻雀、競馬、酒とカラオケ…、怠惰な自分が忌まわしい。
「ああ、イヤだ・・・」
 孝平は、そのまま草の中に倒れ、麦わら帽を顔にかぶせて、やり場のないうっ屈した心をぐずぐずと煮詰めていたが、いつか草いきれの中で寝入っていた。
 どのぐらい眠ったのか、ふと、人の気配で目覚めると、麦わら帽が顔半分から外れて、まぶしい視界の先に野良帰りの女性のふくよかな顔があり、いたずらっぽい目が孝平にまぶしかった。どこかで挨拶ぐらいは交わしてるな? と、孝平は思った。
 女は、「シイッ」と、唇に人さし指を当て、周囲を見まわし人影のないのを確認してから肩の荷をおろし、孝平の横にかがみこみ腰のベルトに手をのばした。二人の姿を深い雑草の茂みが隠し、女の匂いが近づく。
「学生さん。あんたをな、村の女衆はみな狙ってるだからな」
 女は器用に孝平を剥き出しにし、手と口でしばらく自由にした後、自分も素早く準備した上で、孝平に跨り、ゆっくりと腰を落とした。孝平の胸の鼓動がはげしくなって体中に響いている。
「もっと、イイ思いをさせてやるからな」
 孝平は、ただうす目を開けて喘いでいるだけだったが、ごく自然に自分からも律動すると、女が嬌声を上げた。
 やがて、ひとときの快楽の時が過ぎ、傾き始めた陽光の下にぐったりと横たわる二人に涼しい風がそよぐと、女が立ち上がって身支度をし、もう一度屈み込んで孝平の首に手をまわし、うっとりと上気した表情で口づけをして囁いた。
「よかっただよ」
 女は去った。のど元の生きボクロが今も印象に残っている。顔も声も背丈もホクロも、確かに加助の妻に似ている。だが、人違いだったのか。加助の妻は孝平を見ようともしていない。
 あの日の野ヒバリの澄んだ鳴き声と、おおらかな女の嬌声は、今も孝平の脳裏にはっきりと残っている。

 

3、魔の淵のヌシ

 加助の妻が仲間の女衆に告げた。
「囲炉裏まわりは明日の朝に片付けっから、今日はもう終わりにすべ」
 女衆が帰り支度を始めると、囲炉裏を囲んでいた亭主共もしぶしぶと腰を上げた。
 囲炉裏の炭火を掘り起こしながら加助が妻に告げた。
「お雅。おれはここに泊まるからな」
「じゃ、あんたの懐中電灯は、貸してもいいね?」
 加助の妻の雅子が、壁に寄り掛かっている孝平に近づいて懐中電灯を差し出した。
「学生さんは、おらが家で寝な」
「加助さんと、ここに泊まります」
 加助の妻が囁いた。
「あん時は良かっただよ」
 忘れてはいなかったのだ。雅子が呟いた。
「あの続きができただに」
 孝平は思わず口にした言葉を悔いたがもう遅かった。
 加助の妻は既に背を向けて土間に向かっていた。
 囲炉裏を囲んでいた村人の姿が消えて、留吉のあばら家には加助と孝平だけが残った。
 雨脚が強まっている。
 囲炉裏の周囲には、空になった一升瓶や、食べ残しの焼き魚の残骸入りの皿などが乱雑に散らばっていて、天井からしたたり落ちる
水滴が不規則な音を奏でている。
 雨滴は、板壁の内側にも伝わり流れ、壁に寄り掛かってうたた寝をしていた孝平の背を濡らし、その冷たさが仮寝の夢から醒まさせ
る。だが、久しぶりにたらふく飲んだ日本酒が効いたのか、意識はもうろうとして頭が重く目がかすむ。
 それでも、加助が酒瓶の底に残った酒を集めて茶碗酒を二つ作り、「飲むか?」と招くと、すぐ囲炉裏端に座ったたのは本能なのか。
 加助が茶碗酒を目の高さまで持ち上げて孝平の労を謝した。
「今日は朝からお疲れさん」
「加助さんこそ」
 孝平も加助を真似て一口だけ飲んで茶碗を置き、残り物のスルメをかじった。
「学生さんは、今度の留吉さんの事件をどう思う?」
「事件? 溺死は事故ですよ」
「じゃ聞くが、あんたは半年前からこの辺りの谷川を歩いててるな」
「はい」
「鉄砲水に遭ったことは?」
「雨が降りそうなら沢には入りません」
「山の天気は気まぐれだ。仮に、沢に入ってから天候が急変したらどうする?」
「雨が降り出したらすぐ沢を出ます」
「留吉さんから聞いた話だが・・・」
 加助が茶碗酒を舐めなめながら訥々と話し始めた。
「留吉さんの説だと、豪雨の後の数日は要注意で、晴れていても草木が流れたり濁ったりしたら沢を出るそうだ」
「なんで?」
「豪雨で流された樹木や崩れ落ちた岩や土砂が堰を作って水を溜め、それが限界に達して堰が決壊して鉄砲水が出るそうだ」
「深い谷に入った時に天候の急変で豪雨に出遭うと、戻るべき崖道が流れになって足が滑って登れなくなる。だから留吉さんは、雨が降らなくても、上流の山に低く暗い雨雲を見たら危険を察知して、さっさと崖を上がって準備してある掘っ建て小屋に入って天候の回復を待つか帰宅するかを決めるという」
「小屋って、そんな何日も?」
「いつも一週間だった」
「一週間の理由は?」
「ふつう、川漁師は泊り漁のときは獲物を燻製にして保存するが、留吉さんは違っていた」
「どのように?」
「初日に氷を20キロほど新聞とポリ袋で包んで叺(かます)で背負山に入り、小屋の隅に掘った穴の底に置き、その横に、獲ってすぐ内臓を抜いたた川魚を並べて草を乗せ、板で蓋をして冷蔵庫代わりにしていた。その鮮度保つを限界が一週間だったらしい」
「生活の知恵ですね」
「それと、決まった曜日に川から戻って、我が家に寄るから、そこに赤帽の車がが来ていて、注文に応じて獲物を納品先に配達するから、鮮度の高い川魚が即日で料亭の食卓に乘る。このように注意深い留吉さんが溺死なんて変じゃないか?」
「確かに。留吉さんてえ人は、そもそも何者なんですか?」
 少し言い淀んでから加助が口を開いた。
「この地に伝わる昔話から話してもいいか?」
「興味はないけど聞きます」
「今から三百年ほど昔の寛永年間の話だがな。全国的な飢饉は、例外なくこの地をも襲ったんだ。雨の多い夏が三年ほど続き、農作物は全滅、悪疫が流行し、農民も飢え種モミまでも食べつくし、栄養失調での死者が続出したという。その凶作にも関わらず代官所の役人が、飢えた農民を責め容赦なく過酷な取り立てたため、売る娘もいなくなった農家では、一家心中か、一家離散であてもない夜逃げが続いたそうだ」
「ひどい話ですね」
「当時は、慶安のお触書という『田畑永代売買禁止令』が生きていて、困窮した農民の土地換金の道は閉ざされていたんだ。やがて、各地で続発した暴動同様、ここでも百姓一揆が起こったんだな。だが、税の減免を願って代官所に愁訴した村長がその場で処刑され、怒った村人が大挙してる代官所を襲ったんだ。それも、武装した役人の軍に追い立てられ、反抗しない女子供まで惨殺され、一揆はむなしく破れ去ったんだ」
「その一機と、留吉さんと何の関係が?」
「そう急ぐな。そのとき、追い詰められて山奥に逃げた村人が、最後に辿り着いたのが鎌が沢源流上部の高地だった。そこでまた追い詰められて、逃げた村人の全員が高い崖から身を投げたのが魔の淵だった。その後、わずかに生き残った村人からの伝承で、鎌が沢の魔の淵は、恐ろしい伝説の『禁域』となっている」
「本当の話ですかね?」
「近年になっても、釣りに出て行方不明だったり、神隠しに遭ったと言われた子供の衣類がその下流で見つかったりしていて、その都度伝説が蘇って今も連綿と鎌が沢上流の魔の淵は『禁域』になっている」
「まさか、留吉さんがそこに?」
「留吉さんは、一切、漁場の話はしなかた。だが、化け物のようなイワナが魔の淵のヌシいるらしいのだ」
「なぜそれを?」
 酔った加助の話は、際限なくはら話に近くなり、孝平の酔いは少しづつ醒めているる。
「魔の淵のヌシはな、いつもは滝つぼの奥深くに身をひそめてて、大雨で沢の水が増えるとな、梓川本流にまで未だに出没して餌をあさるだ。
それを見たのは何人もいるだが、みな、目が潰れるか、気が狂うかしてロクなことがねえ。そのため、この話もガセネタとして扱われて
未だに本気にされていない。これも、怨念を抱えて死んだご先祖さまの祟りだな」
 孝平は、折角の酔いが覚めてしまいだ加助を少し恨んだが、「留吉は鎌が沢のヌシに殺られた」と言い残した古老の話を裏付けるものと気づいたとき背筋に冷たいものを感じてゾッとした。もしかすると、この話は事実かもしれないのだ。

 

 

 4、水棲生物の巨大化

 酒が切れて村人も去り、留吉のあばら家に残ったのは加助と孝平の二人だけになった。酔った加助が足元をふらつかせながら押し入れから破れ布団など夜具を全部引き出して、孝平にも手伝わせて夜具を二つに分け、雨漏りを避け別々に敷き、「先に寝るぞ」と布団に倒れ込んだと思うと、すぐに高イビキで眠りこけている。
 仕方なく孝平も布団に潜ってはみたがなかなか寝つけない。
 酔った頭の中で、孝平は考えをまとめようと努力し、鎌が沢のヌシを想像した。
 大きい滝の淵には、必ずヌシと呼ばれる大物が潜んでいる。ただし、その種類はまちまちで、ウナギ、コイ、イワナ、ヤマメ、川マス、ブラウントラウトだったりする。
 なぜ、ヌシが巨大化するかというと餌を独占、あるいは優先的に確保するからであり、餌が無くなると共食いをして生き残る。このヌシについては、孝平も栃木県の那須の山奥で実際に淵に潜って、大きな鯉に驚いて逃げ戻っ経験があるから確かめだった。しかし、その巨大化にも限度がある。たかが川魚なのだ。て
「タキタローじゃあるまいし・・・一時期、話題になった東北奥地の秘境に伝わる幻の怪魚伝説に思いを馳せてみる。
 タキタローは、前氷河期の生き残りの子孫といわれ、下あごが長く発達し上あごの下に食い込んでいて、獲物を一気にかみ殺し呑み込むという巨大な水棲獣が実在するのも事実なのだ。
 川魚が巨大化するための環境を考えると、いくつかの科学的条件にアプローチしないと理解できない。
 まず、一番に四季を通じて水量が安定していること。そのためには、冬の渇水期を乗り切る豊富な湧き水があることが最低条件になる。
 昔から、カマという字を付した地名は、水が湧くといわれることから考察して、多分、鎌が沢は、この条件にあてはまる。と、なれば、二番目の水温の安定という問題もクリヤーできることになる。
 湧き水の多い沢は、当然ながら冬と夏の温度差が少ない。水温が安定していると、冬眠期がなくなり採食活動が活発化になり、発育成長が著しく増進されることになる。
 三番目は、餌が豊富であること。これは、水温が安定することと水質が関係する。川魚の餌になる水生昆虫の生育に必要な条件は、その餌になる藻やプランクトンの育ちやすい環境でなければならない。
 四番目の必要項目として、酸素の溶解量も重要になる。
 流れが速く川床の起伏や曲折のはげしい河川ほど溶解酸素量は大になる。これを、理学系の専門用語では、乱流度係数といい、孝平が測定した鎌が沢下流での係数は、9・00cc/L 、かなり高い酸素量を示している。これは豊富な餌も育つが、この沢に生きるすべての生物が大きく成長する可能性を物語っている。
 五番目は、水棲動物の生態を知る手がかりとなる水素イオン濃度、すなわちph値だが、これは鎌が沢下流で6・5と安定した数値をしめしていて問題ない。
 六番目は、生物が育つために必要な水質のよしあしだが、つい一週間ほど前に孝平がゼミの夏季講習で発表したばかりだから、酔った頭でも思い出せる。
 八月X日、晴れ、午後一時、採水は鎌が沢下流、その日のデータでは、カルシューム濃度が9・0ppm、珪酸8・5ppm、鉄分は0・03ppmとなり、気温23度で水温は15度であった。これは、川魚の棲息と成長には最善の条件となるだろう。
 以上を総合して考えると、たしかに大物の川魚が育つ環境は整っている。と、なれば、鎌が沢の魔の淵に、大きな川魚が潜んいてもおかしくはない。
 以前、只見川の三条の滝の滝つぼには、三尺(90センチ)のイワナが棲みついているが、谷が深くて辿り着けないという話を聞いたことがある。多分、それに近い川魚がここにはいるに違いない。
 だが、奥信濃の谷にそのような川魚が生存したという話を、孝平は聞いたことがない。しかし、実在しないという証拠もない。
 ここまで考えて孝平は首を振った。これは、自分には関係のない話なのだ。このバイトもあと僅かな機関で終わる。たかが川魚の大小で、こんなに頭を使うなど愚の骨頂だ。悪い夢は忘れるに限る。
 目を閉じると、仲間とカラオケスナックで飲んだり歌ったりで楽しく過ごしている自分が見える。
 だが、思いがまた川に戻る。
 鎌が沢流域には、トビケラなどの水生昆虫類百八十種、魚類は、十二科二十種でイワナ、ヤマメ、カジカ、ウグイ、シマドジョウ、アブラハヤ、オオサンショウオ、マスなどでこの季節には、アユも遡上する。
 鎌が沢のヌシは、梓川流域上流に君臨するイワナなのか。イワナは、サケ科の淡水魚で、その生命力はどん欲で旺盛、あらゆる小生物を餌とし、高地の源流に君臨する。とくに、大きな滝つぼに棲む大イワナは、上流から流れ落ちるトカゲ、ヘビなどを好物として、飢えれば共食いもする。
 孝平にとって話に聞くイワナは、好きになれない相手だった。攻撃的でどう猛なその性格が嫌いだった。そのような川魚を好んで釣る釣り人の気が知れなかった。
 消えそうに揺れる燭台の灯で見ると、加助は相変わらずの高イビキで眠りこけている。
 孝平も暫くして深い眠りに落ちた。

 

 



5、通夜の客

 夜が更けて、初秋の雨降る山里は、さらに寒さを増している。
 雨滴を含む冷たい風に頬をなでられて、孝平は夢うつつながら目覚めた。囲炉裏にくべた薪も炭も消えかけ、壁に吊り下げられたランプ台の灯も弱々しく隙間っ風に揺らいでいる。
 暗いあばら家に加助と孝平だけが泊まり込み、留吉の柩と夜を共にしている。留吉には親類縁者もなく、親しい間柄といえば加助だけだったらしく、身内と名乗る者は一人も現れない。
 妻をめとることもなく、川漁師として一生を終えた五十男の怨念と、留吉に仕留められた獲物たちの恨みが室内に充満し、陰湿な翳りを漂わせて肌寒く孝平は布団の中で首をすくめた。
 その時、入口の引き戸が音もなく開き、冷たい夜風がそこから吹き込んできた。夢の中の幻覚かとも想えたが、孝平のうつろな視線の先に、雨に濡れた人影が、右手に何かを持って土間に立ち、室内の様子をうかがっている。孝平は、何とか意識を目覚めさせようと焦ったが、もやが深くなって視界がかすみ、思考力が失われていて自分でももどかしい。手をのばして加助をゆり起こそうとしたが、身体が金縛りに遭ったように動かないし声も出ない。それに、加助は高イビキで熟睡中で、とても起きる気配もない。
 やはり、夢の中の出来事なのか。和服なのか洋装なのか黒の喪服なのかさえ定かではない。だが、しなやかな体型と風になびく黒髪と彫の深い顔立ちから麗しい女体でであることだけは見て取れる。
 その人影は、ゆっくりと土間から部屋に音もなく上がり、孝平の目の前を通過して留吉の柩に近づき、ゆっくりと蓋に手を掛けて持ち上げ、中をのぞいた。その瞬間、ドライアイスの白煙がゆらいで部屋に流れて室温をさらに下げた。
 人影は、手に持った短い棒のような物を、留吉の遺体目がけて振り下ろした。「グシャッ!」と、不気味な音がしたが、それも一瞬、妖艶な女が振り向いて挑むような目で孝平を見た。
 孝平は、思わず叫び声をあげようとしたが声が出ない。のどが締めつけられるように苦しい。やはり夢なのか? 夢だから声も力も出ないのに違いない。その孝平の心を読んだのか、女の表情が緩み、孝平をあざ笑うかのように白い歯を見せたが、その歯は牙のように鋭く見えた。女の表情には、悲愁をはらんだ恐ろしい殺気があり、この世のものとも思えない冷たい妖気がただよい、その目は深く淀んだ光を放っていた。
 恐怖に震える孝平の脇を、女の姿が滑るように通って土間に降り、そのまま開いていた戸口から煙のように消え去った。
 暫くして孝平が自縛が解け、夢から醒めたように立ち上がったのは、開いたままの戸口から吹き込む冷たい雨風が耐え難いからだった。土間に下りて戸口から外の闇を覗くと、女の立ち去った方角なのか風雨の音に交じって低く重く不気味な猫の唸り声が聞こえた。
 戸を閉めて、改めて女の通った跡を見ると、土間から柩に向かってのボロ畳には、濡れた女の衣類を引きずったような濡れ跡が続いていた。
 孝平は、留吉の柩の少し開いているフタを持ち上げ、中を覗いて息をのんだ。留吉の白装束の胸に、短く折れた竹の先の四本刃の錆びついたヤスの刃先が突き立っている。
 孝平が、そのヤスを抜こうとしたが返し刃が邪魔して思うに任せない。仕方なく棺台に乗り、左.足を刃先の横に置き、死体の胸を踏みつけた上で、両手で力まかせに引き抜くとヤスが抜け、留吉の遺体が生き返ったように弾み、孝平は仰向けに畳に倒れ落ちた。
 孝平が倒れたまま、あわてて留吉の肉片が付いたままのヤスを土間に投げ捨てると、その音で加助が目覚めて寝ぼけ声を出した。
「なにしてるだ?」
「女の人がいたんだ」
 加助が寝ぼけ目で周囲を見て怪訝な顔をした。
「誰もいねえじゃないか。夢でも見たんだろ?」
「いや、夢じゃない。本当なんだ」
「この真夜中に誰が来る? 悪酔いしたな?」
「そうかなあ?
 恐怖と寒さで眠気の失せた孝平は、消えかかった囲炉裏の火を火箸でかきまわしながら考えた。でも、確かに夢ではない。
「そこの濡れ跡が、その女が通った証拠だし、その女が留吉さんの遺体にヤスを突き刺すのを見たんだ」
「ヤスを?」
「それを引っこ抜いた音で、加助さんは目が醒めたんだ」
 返事はなかった。加助は孝平から火箸をとり上げ、囲炉裏の灰を器用に掻き分けて炭を加えると火勢が戻った。
 加助は、暗い顔で囲炉裏の火の燃え上がるのを確かめてから、炉端に転がっている一升瓶から少しづつ残っている酒を集め、茶碗二つに分けて一つは孝平に与え、自分も一口飲んでからぼそぼそと話しはじめた。
「おらも昔、ここで、悪い夢を見たことがある……」
 加助は、視線を囲炉裏の火に向けたまま、過去の記憶を手繰り寄せるようにゆっくりと語り続けた。

 

 

6、一昔前の出来事

 この話は、まだ小学五年生の頃の出来事で「記憶が曖昧だが」、と先に断って加助は話し始めた。
「だいぶ昔のことだが、留吉さんがこの村に来る半年ほど前の春にな。東北の山奥で暮らしていた山の人の一人が山伝いに逃げてきて、この辺りの山に出没するようになったんだ」
「山の人って?」
「山で暮らすサンカ、川で暮らすセブリなどの差別用語もある特殊な人達でな、各地の山々を転々と渡り歩く無籍の山職人の集団のことだ」
「そんなのとっくの昔になくなってますよ」
「おらもそう思ってただが、東北の秋田や青森の山奥には、いまだに炭焼き、狩猟、川漁、木工・竹細工、皮製品、熊の肝などを担いで里に降り、衣類や食料と交換して暮している山の人が生き残っていたんだな。現に、おらのオフクロも子供の頃に、この辺りの山にいた山の人が春になると麓に下りて来て、担いできた品を米や衣類と交換していたというから、四、五十年前まではこの辺りの山にも山の人はいたんだな」
「それで?」
「逃げてきた男は、仲間内の争いで二人の仲間を殺し、部族の掟の死罪を恐れてこの辺りにまで逃げ延び、安曇野から穂高にかけての山中に棲み着いたらしい。なにしろ、部族の掟はきびしくて、里人とのトラブルは厳禁だし、間違いを犯せば厳しい制裁があり、殺人は死を以て償うのが部族の掟だから、その男も過酷なリンチによ死刑を恐れて逃げたんだな」
 加助の話しを要約するとこうなる。
 この男の存在が明らかになったのは、ある事件がきっかけだった。
 初春のある日、他県から泊まりがけで渓流釣りに来ていた二人連れの釣り人が、鎌が沢上流に遡行して、一人が死亡、一人が瀕死の重傷を負うという事件が起こった。
 重傷で生き残った男の話だと、大物の魚影を求めて困難な岩場を越え、かなり上流に進み、大きな滝の下にたどり着いたとき、急に強い雨が降ってきた。あわてて、崖上への逃げ道を求め、滝の手前にブッシュに隠れた巻き道があるのを見つけて、そこをよじ登ろうとしたとき、崖上に奇妙な風体の大男が現れた。男は両手に石を持ち、奇声を発して威嚇した。恐怖の目で上を見上げた二人が、崖道に突き出た灌木につかまりながら進退に迷っていると、大男が石を続けて投げ、それが二人の肩と胸に当たったので、思わず灌木から手を放して崖道から転落して早瀬に呑まれた。一瞬の出来事で何が何だか分からぬ状態でバタついている先を、釣り仲間が流れに乗って下流に消えてゆくのが見えた。(救わねば)と思っても自分自身の体が自由にならない。脚部に激痛が走ったが腰までの深さの川底を蹴って、岸に向かって無我夢中で足掻いたが、水中の何者かに足を引き込まれるような感覚で流れに呑まれ、そのまま気を失って流された。
 この男が、かなり下流の浅瀬で体中を傷だらけの重傷で失神していたところを救助され、先に流された釣り人は、これより下流で、傷だらけの死体となって発見された。
 警察の調べでは、重症の男は精神的にもかく乱状態なのか供述も曖昧で、崖上から石を投げた男は二メートルを超す獣のような巨漢だったとか、水中にも獣がいた、など現実離れした内容をたどたどしい口調で述べた後は、昏睡したまま一か月ほどで息を引き取ったという。その二人の共通点は、どの傷口も骨が剥き出しになるほど肉が削げ落ちての無惨な状態だったことだった。

 その被害者の車が林道脇にあったことから、それを発見した営林署職員からの通報で、翌日、雨上がりの沢筋が捜索され、二人が発見されたのだ。その時、重傷で救助された男の供述から異様な山男の存在が判明し、駐在なかったのか、所の警官や営林署職員はじめ、猟友会など村人総出で山狩りをしたが、大男の姿も存在した形跡もどこにもなく、降雨での増水に怯えた釣り人の「幻覚だった可能性もある」、との警察医の発言で山狩りは打ち切られた。
 その事件から一ヵ月後に重傷だった釣り人が逝き、それから一か月も立たない内に、山採を採っていた村の農夫が、それらしい大男に威嚇され、弁当を脅し取られるという事件が起きた。男は、皮ばかまの腰に山ナタを下げていて、農夫は持っていた杖代わりの棒で抵抗したが、拳の一撃で倒されて前歯を二本折られている。その際も山狩りは効果がなかった。数か所で、雨風を凌ぐ程度のにわか作りの漁小屋を見つけたが、いづれも人の住んでいる気配はない。
 それからも、村人は何度かその男と遭遇して被害に遭って怪我を負い、その都度逃げ帰った村人の証言に基づいて山狩りを実行したが、いずれも空振りに終わっていて効果はない。その後、麓に近い斜面の畑で濃作業をしていた村人が弁当を狙われて鎌で闘い、山ナタで左腕を切り落とされて瀕死の重傷を負うという事件に発展して、警察も本格的な捜索に動いたが山は深く、凶暴な山男の行方はようとし知れなかった。
 その後、長野県警本部から各地への問い合わせで耳寄りな事実が判明し、それは赤岩村の駐在にもも伝えられた。
 それによると、東北の山間部に残存する山の人の部族の男が仲間を殺して逃げ、山から山へと追手を逃れて信濃の山に辿り着いたらしいとのことだった。
 この野蛮で凶暴な男が、食料を求めて人家のある麓まで出没するとなると、この周辺町村の住民らは林業だけでなく、農作業にも出られないし、枕を高くして眠ることさえできなくなる。
 当然ながら、その山のような苦情のあて先は、村長の十八代・松尾源兵衛になる。その訴えに苦慮して眠れぬ々を過ごし、憔悴した村長は、ある日、密かに旅支度と大金を持って家出をした。
 家人には、「すぐ帰るから心配するな。病床中として他言無用」との伝言の書置きを残していた。
 村役場の助役と教育長には何らかの指示があったらしく、役場では「村長は急病で療養中」となっていて、行政には何の支障もないが、凶暴な山男の神出鬼没の乱行による障害事件は後を絶たず、村の自警団と警察のタッグチームも翻弄されるばかりで手も足も出ないのが実情だった。

 

 

第三章

 1、留吉の仕事

 一か月ほど家を離れた村長が帰村したのは、梅雨の季節に入った六月中旬のことで、村長は風采の上がらぬ小柄で地味な若者を連れて帰村した。その若者が留吉だった。
 留吉には、木こりが以前住んでいた山際のあばら家が与えられた。
 加助の家に、留吉の身元引受人である十八代・松尾源兵衛と、駐在の杉山巡査(中宮巡査長の前任者)と、当の留吉の三人が、駐在の運転するマイカーで引越しの挨拶に現れたのは、冷たい小雨が止んだばかりの初夏の日の午後だった。

 その日は午前中から村長の指示だと言って、二台の軽トラックに荷を積んだ村の自警消防団の若者達四人が加助の家を拠点に、生活に必要な最低限の家具・台所用品・食料や夜具に加えて、釣具や四本刃のヤス、猟銃など留吉の私物などをそのあばら家に運び込んでいた。
 加助は、子供心にどんな人が引っ越して来るのか興味津々で待ち受けていた。
 村長ら三人が、加助の家に到着したときは、荷を運び終えた若者達が戻っていて、縁側で熱い餅入り汁粉を振舞われて、村長と留吉一行の到着を加助親子共々待ち望んでいるところだった。
 車から降りた村長が若者達に近づき、ジャンバーの内ポケットから用意した白封筒を出して、一人づつ労いの言葉を掛けながら封筒を渡すと四人の若者は嬉しそうに謝意を述べ、駐在と留吉にも挨拶をし、体の弱い加助の母にもきちんと挨拶をし、それぞれが加助の頭を撫でて去って行った。 
 引越しの挨拶だけだから「玄関先だけで」、という留吉を村長が説き伏せて、座敷に招いた加助の母親の好意に従うと、客間にはすでに膳が出ていて、小学生だった加助も同席させて簡単な酒肴の席が始まった。加助の母としては、新たに隣人となる留吉の引越し祝いと近所付き合いの意味もあっての会食だったが、今後の交流を考慮しての人柄定めでもあった。
 留吉は恐縮し、加助と母も大いに喜び、 村長と駐在は「一杯だけ」と言いつつ茶碗酒を数杯飲んだが、留吉は正座したまま、緑茶だけを口にして出された料理にも赤飯にも箸をつけなかった。その理由を村長が代弁した。
 留吉が所属した村では、一般の家屋に立ち入ることも食事を饗応されことも禁じられていて、こうして座敷に上がったことだけでも異例だという。だが、これからの留吉は村人の一員として普通の家庭生活に馴染んでもらわねばならぬので無理に座敷に上げたと、という。
 そんな留吉を、加助の母が好意の目で見ていることは、まだ小学生だった加助にも感じられて嬉しかった。
 小学二年の幼児期に父を病いで失い、母と二人だけの生活が淋しかったこともあって、加助は、小柄で口数が少なく穏やかな留吉にすぐなつき、初めから好意をもって接した。
 その席での会話がどのようなものであったかは忘れたが、村長が留吉を母に紹介するときに「村の人達を救うために」と言った一言だけが加助の記憶の片隅に残っている。
 村長と駐在も留吉の家まで行って、若者達に「屋内に置くだけでいい」と指示した荷物の片づけを手伝うと聞き、加助も、母が用意した煮物や握り飯や香の物などに加えて、留吉が手をつけなかった料理もパックに入れ、まとめて包んで風呂敷をリュックに背負って同行することになり、自分ら子供仲間の遊び場で秘密基地でもあった山裾のあばら家に向かった。加助は、あばら屋の東側にある掘り井戸の使い方や、近隣の地理などは、子供とはいえ村長や駐在よりは自分のほうが詳しいような気がして、それらを留吉に教える喜びでわくわくしていた。
 その日から留吉は山裾のあばら家に住み、小学生の加助が留吉にとって唯一無二の友人となってゆく。

 留吉は、口数も少なく遠慮がちな男で、新鮮な川魚持参で加助の家に立ち寄った時でも、加助の母が和菓子などを出しても、お茶だけで恐縮して絶対に家にも上がろうとせずに、深く礼を述べて帰るのを常としていた。
 加助は学校から帰ると、病弱な母に代わってひとしきり畑仕事をしてから、留吉の家に行くのを日課としていた。それは留吉が留守でも続いた。玄関と思しき引き戸にはカギもなく出入り自由で風通しもいいが冬は寒い。
 留吉は、猟に出ると何日かは帰らない。
 冬の間は猪を追って山に入った。
 留吉の出漁するときの身支度は、筒袖の山着物に股引き、脚絆(きゃはん)、手っ甲に黒足袋でわらじ、ブドウの蔓で編んだ背負い籠に手製の継ぎ竿や三本刃のモリ、飯盒(はんごう)、米、味噌、漬物などを数日分入れ、肩からカマス、遠出するときは獲物が傷まないように途中で川に浸しておくための一斗缶も籠の上に積む。
 夜は、仮作りの漁小屋や、崖下の岩穴で野宿し、ケモノ避けの焚き火をし、その周囲に竹串に刺した獲物を並べて焼くか、缶の中で蒸して燻製にする。その緊急非難用岩穴には、煎り米などの非常食を用意してあるという。
 帰るときは燻製にした良型のイワナやヤマメ、風通しのいいカマスに入れた獲りたての生きのいい獲物を、めいっぱい背負って帰宅する。
 そのため、川漁に出て帰らぬ日が多い留吉には、加助も周に数度しか会えなかったが、留吉に会えた日は、竹細工編みを教わったりする。帰宅時には、必ず獲物の源流育ちの身の締まった大イワナや、病弱な母のためにと薬草を貰ったりした。
 それにしても、留吉の獲物は群を抜いて素晴らしく、他の川漁師や、加助がモリで突いて得た川魚とは、色も艶も魚体もまるで違っていた。囲炉裏の炭火でじっくりと塩焼きにしたときの、味はまさに天下一品、食欲がないという母でもきれいに食べ尽くす。
 留吉が帰って来るのを見計らったように、松本や近辺の温泉宿の料亭に、川魚を卸す仲買人が、手土産持参で加助の家の庭に車を停め、山道をぶらぶらと散策しながら留吉の家に入り浸っている加助の知らせを待つのだった。その仲買業の人達は、加助の母が遠慮しても、必ず何らかの心づけや手土産を置いてゆくのがいつしか慣例になっていて、これは加助母子にとってはは箱に
 仲買人は、留吉から薬草なども買い上げ、生活用品や食料などと交換した。
 加助の母も、留吉が採取した薬草を煎じて飲み続けるうちに、寝たきりだったのがウソのように回復して、留吉が獲り立ての新鮮な川魚を届けに寄ると、起き上がって茶を入れたりした。留吉は、いつも一杯の茶ですっかり恐縮し、どんなにすすめられても、家には上がらず、食事や酒はもちろん、出された茶菓子などにも絶対に手をつけなかった。
 それは、他の村人の家に寄ったときでも同様だった。

 

2、仕事の結末

「留吉さんは、人付き合いの悪い変わり者だ」
 誰もが留吉のことをそう評価していたが、加助にはそうは思えなかった。
 加助が母が作った草餅持参で遊びに行った時などは、留吉は薬草づくり作業などの手を休め、相好を崩して喜んでくれた。その草餅を口にして「うめえなあ」と感嘆し、「おっ母さんによろしくな」と念を押すのだった。そんなときの留吉の表情は子供のように屈託がなく底抜けに明るい。
 初秋のある日曜日、留吉が村に住みついて数か月過ぎた頃、事件が起こった。
 その二十年以上前の事件について加助が孝平に語った。ある晴れた日曜に、朝早くからキノコ狩りで山に入った村の男衆五人が、異様な大男に襲われて、逃げ遅れた二人が殴られ、抵抗した一人が腕を折られる重傷を負い弁当を奪われただ」
 その事件の経緯は、その日の午後には村中に広まった。生憎と村長は私用で松本市に出かけていて不在で村役場も休み、統制のとれないまま、村の自警消防団が中心になって山狩りの機運が一気に盛り上がった。それに賛同する者全員がナタやスコップなど手ごろな武器を手に駐在所の前に集結、狩猟の鑑札を持つ猟友会のメンバーも猟銃持参で参加して、駐在の杉山巡査の指示を仰いだ。
 杉山巡査は「村長が戻ってから県警本部に応援を頼むかどうか決めるから少し待ってくれ」と村人を制しながらもすでに腰には拳銃を装備して戦闘態勢にあり、出陣の態勢は整っていた。そこに駆け付けたのが当時の村長・十八代松尾源兵衛だった。
 村長は助役からの緊急電話を受け、出先の途中から引き返して来たのだ。
 村長は、いきり立つ一同を宥め、広い山を我が家の庭の如く走り回る神出鬼没の山男を、この人数で捕捉するのは無理だ。ひとまず「わしに任せろ」といきり立つ一同を自宅待機という形にして山狩りを先送りした。
 村長はその場ですぐ、加助の家に駐車依頼の電話をし、杉山巡査の運転するパトカーで加助の家に向かった。留吉の家に行くには加助の家の敷地に車を駐めねばならない。
 この日は日曜日でもあり、体調を考えて野良仕事を朝のうちだけで済ませて帰宅していた加助の母の多紀は、村長からの「パトカーを駐車させてくれ」という電話だけで只ならぬ気配を察知し、頼まれもしないのに急いで飯を炊き、村長と駐在が到着した時は、すでに握り飯に香の物などを竹皮に包み終え、それを加助の小さなリュックに詰めていた。
 この日、友達と鎮守の森で遊んでいた加助も、異変を知った年長者から帰宅を促されて家に戻っていた。加助は子供ながらも直感的に、この件は何か留吉と関係があるように感じていて、母が作った弁当が留吉のためであるならば、それを届けるのは自分の役目と勝手に決めていたから、自分からリュックを持ち出していたのだ。
 やがてパトカーが到着し、庭先に降り立った村長と杉山巡査が現れ、玄関に廻ろうとして室内で立ち上がった加助の母を庭から制して縁側に寄り、手土産の菓子折りを居合わせた加助に手渡した。
 母と加助が礼を言うと、村長が加助の頭を軽く撫でた。
「お多紀さん。暫らく車を停めさせてもらうよ」
「上がってお茶でも」
「急ぐから今日は上がらん。お茶は帰りに頂く」
 村長が加助の母の申し出を辞退して、逆に問いかけた。
「ところで、留吉は在宅じゃろか? あそこには電話もないしな」
 加助の母がけげんな顔をした。
「留吉さんなら、村長を待ってますよ」
「なぜそれを?」
「先ほど、今朝獲ったイワナを届けてくれて、後で村長が来たら、暫く家を留守にする、と言ってました」
 加助も続けた。
「おいらにも、しばらく遊べないな、と言ってただ」
 村長と駐在が顔を見合わせた。留吉は、すでに山で起きた凶悪事件の発生を知っているのだ。
 加助の母が会話をしながら淹れた緑茶を、村長と駐在が立ったまま旨そうに飲み、礼を言って背を向けた。二人の背にも荷がある。
 加助は慌てて運動靴を履き、リュックを背負って二人を追うと、二人が気づいて振り向き立ち止まった。
「ぼうずも一緒に行くか?」
「いつもおらが案内役だよ」
「そうか、頼むぞ」
 加助を先導に三人が草を分けて留吉の家に向かうと、小鳥が飛び立ち小動物が叢を逃げた。
 三人があばら家に着いたとき、山刀を研いでいた留吉は作業を中止して、三人を出迎えた。
 村長が聞いた。
「留吉。わしの用件を知ってたのか?」持って
「察しはついてるだが詳しい説明を」
「いま、杉山巡査が説明するが、準備は?」
「いつでも」
「食料は?」
「炒り米や干物や味噌はわしらの携帯食だから、何の心配もないです」
 駐在の杉山巡査が手短に、山で起きた事件を話すと、留吉はすでに異変を感じていたのか素直に頷いて頭を下げた。
「引き受けました。もしも万が一の時は駐在さん、後を頼みます」
「本来は村と警察の仕事だが、過去の失敗に懲りて山のことは山の人、ここは留吉さんにお任せする」
 杉山巡査に続いて村長も頭を下げた。
「なにがあろうと、警察の私がが責任をとります」
 加助がリュックから母の用意した握り飯包みを取り出すと、嬉しそうに手に持って重さを量った。
「有難う。二日分はゆうにある、おっ母さんに宜しくな」
「さ、出陣祝いだ」
 村長が持参した四合瓶から茶碗酒が三つ注がれ、加助には水が出されて四人で乾杯、打ち合わせもすぐ終わった。
 駐在の話を聞いているうちに、加助にも留吉が請け負った危険な仕事の内容が朧げに理解でき、小さな胸は恐怖で震えた。
「職業柄、酒は舐めるだけで」と言う杉山巡査の茶碗が空になると村長が酒を注ぎ、巡査がそれを受けている。
「おじさん。一人で山に入るの?」
「何も心配ない、すぐに帰るさ」
 留吉は、加助の問いにきつい表情を見せたが、それも一瞬、またいつもの温厚な顔に戻って笑顔を見せた。
 留吉は、乾燥した何種類かの薬草を細かく刻んで混ぜ、紙に包んで加助に渡した。
「おっ母さんの心臓の薬だ。ジキトリスにほかの薬草を調合したから、今までのよりよっぽど効くからな。お茶代わりに煎じて飲むように言うだぞ」
 留吉の目がまっすぐ加助を見つめた。両肩に手を置き、珍しく真剣に言った。
「おっ母さんを大事にしろ。今日は送っていけないから村長と一緒に帰ってくれ」
 明るいうちにと夕焼け空の下、三人が帰路に就くと、背後から山刀を研ぐ砥石と刃物の摩擦音が鋭く恐ろしく加助の耳に響いた。

 翌日、加助は学校から帰るとすぐに留吉の家に寄ったが、雨戸は閉まっていて留吉の姿はない。
 それが一週間も続くと、加助は不安になった。それまでにも、川漁に出ると三日、四日と家を空けることが多かったが、なにか今までと違った雰囲気に加助の心はおののいた。
 母は、あの煎じ薬を服用して以来、狭心症特有の激痛を伴う発作もおさまり、顔色も健康そうになり、かなりの畑仕事さえできるようになった。奇跡的な出来事だと、親子は留吉に感謝していた。
 留吉が姿を消して十数日を経過した土曜日の夕暮れ、いつものように加助は留吉の家に走った。
 雨戸は閉まっていたが引き戸が少し開いていて、何となくいつもと様子が違う。そっと中をのぞくと、魚臭の生臭さとは違った不気味に生臭い血の匂いがした。
 家の中は静まり返って音もない。いい知れぬ恐怖が加助を襲い足がすくむ。加助は戸を閉めるのも忘れて夢中で逃げ帰った。 母にはなにも言えなかった。食事ものどを通らない。家の内部を見てないから母にも言えない。
「からだの調子がわるいから」と、いつもは母と一緒に寝る布団に先に潜ってはみたがとても寝つかれそうもない。
 母と子の二人暮らし、からだの弱い母に代わって所帯主同様の身でありながら「こんなことでどうする!」、天の声がおのれを叱咤する。加助は布団の中で唇を噛んだ。
 その恐怖に怯えた加助に気づいたらしく、布団の上から母が優しく声を掛けた。
「加助、先に寝ててな。母ちゃん、ちょっと用があるから」
 加助が布団の縁を捲って寝室を出て行く母の後ろ姿を見て驚いた。母は野良仕事支度と同じモンペ姿なのだ。
「母ちゃん!」
 思わず飛び起きた加助が母を追うと、三和土(たたき)に腰かけた母が地下足袋を履いているところで、脇に荷を詰めた籠がある。母が加助を見た。
「寝てないとダメじゃないか」
「母ちゃんは,、どこさ行くだよ」
「留吉さんのところを見てくるだけだから心配ないよ」
「なんで?」
「おまえ、何か見て怖かったんだろ?」
「おらも行く!」
 加助はすぐ普段着に着替えて運動靴を履き、懐中電灯を手に母と手をつないで家を出た。
 様々な小動物が出没する里山の夜は闇に包まれて不気味だが、気丈な母の手の温もりが加助の恐怖心を消していた。

 少し開いていた立て付けの悪い引き戸をさらに開けて、中に入ると、二人の懐中電灯の輪の中に留吉が倒れている姿があった。
 加助も気づいたのか「おう、来てくれたか……」と、頭だけを上げようとする。
 加助が部屋に駆け上がり声を掛けると、留吉は安心したのか、また血の匂いの中に倒れ込んだ。雨戸を開き、新鮮な朝の冷気を入れ
ると、部屋の臭気が薄まった。 病弱な母をもつ身で看病には慣れている。
 血に染まった留吉の漁衣の襟をはだけると、薬草がべったりと貼られていて、その上に血糊が浮いていた。周囲に薬草の葉や茎がも
みしだかれ散らばっている。
 留吉が「足を……」と、うめいた。
 見ると、右足を縛った布から血が滲んでいる。 留吉が動けないのは左の腰から大腿部にかけての裂傷が、かなり
の深手である上に、肩口と胸の傷もダメ?ジになっているようだった。この満身創痍の身で、ここまで辿りつけたのが奇跡だった。
「医者を呼んでくる」
「ダメだ。このことは誰にも言っちゃなんねえ!」
 その絶対という強い響きに押されて、加助は母にも学校の友達にも話せなかった。
 握り飯を渡すと、留吉は横になったまま貪るように口に押し込み、加助が運んだ水を飲み一息ついてから礼を言った。
 加助の母の献身的な看病と加助の協力で留吉の体も徐々に快復し、二か月で杖での歩行が可能になり、三か月で杖が不要になった。
 留吉は、この時の傷が元で片足が不自由になっていた。
 その後、粗暴で凶悪な大柄の山男の姿が消え、村は平和を取り戻した。
 事情を知らない村人は、山男が他郷へ去ったと喜んだが、留吉の保証人になっている村長と事件を握り潰した駐在、それに加助親子と当事者の留吉、この五人だけが真実を知っていた。
「あんときは怖かっただ……」
 加助は遠いところを見るような視線で昔話を締め、残り酒をあおった。
「凄まじい殺し合いだったんでしょうね?」
「だべな」
 孝平の脳裏に、雄大な北アルプスの山々をバックに、山刀を振るって争う精悍な小男と獰猛な大男の壮絶な死闘が浮かぶ。
 その事件以降の留吉は、幾度か、山の遭難者を救ったり、溺死寸前の子供を助けたり、急病人に薬草を届けたりと、人の難儀に役立
つ働きをして村人の信頼を得ていたが、かたくなに村人との交流を拒み孤独な生活を守っていた。そして、自分の役割は済んだとでもい
うようかのように村人の前には姿を現さなくなった。
 加助が、囲炉裏の残り火を見つめながら、あくびをした。
「明日の朝は、葬式で早くから人が来るべ、ちっと寝っか……」
 立ち上がって押し入れから、綿のはみ出した布団を何枚か引き出し、孝平にも寝るようにとうながす。雨音が小さくなってはいたが
、夜はすでに深更をすぎていた。
 それでも二人は眠りに落ちた。そして、孝平は夢を見た。悪い夢だった。夢の中で、妖しい女の潤んだ目が孝平を見つめている。
 その目は、ふり払ってもふり払ってもまとわりついて来る。孝平にとって縁もゆかりもないはずなのに……。

 

 

3、留吉の葬儀

 朝、騒がしい声で孝平は目覚めかけていた。
 朝早くから手伝いに来ている村の女衆の白い脛が、孝平の顔の上を遠慮なくまたいでいる。
「そろそろ、学生さん、起きるかね」
 女衆の一人が、孝平のくるまっている布団を剥ぎ、孝平はあわてた。
「あらま、たくましいねえ」
 その嬌声がなにを意味するのかが部屋中に伝わり、女衆の視線が孝平のジーンズの股間に注ぎ、たちまち淫靡な笑いとざわめきが起こった。孝平は、腰を引きながらすねた顔で身を起こし土間に下りた。
 二日酔いの頭が重い。こんなところは、さっさと逃げ出すに限る。
 裏木戸を開けて井戸端に立つと、少しばかりの雲はあるが快晴、風が冷たい。赤トンボが舞っている。空の甲斐まが冴え、木々の緑が目に沁みる。手押しポンプで水を出し、素早く顔を洗って手ぬぐいで拭いたとき、ふと妙な音に気付いた。音のした秋草の白い花が群生する下を覗き見ると、例の茶のブチ猫が丸まって何かを舐めている。
 よく見ると、その前足で押さえた部分から折れた竹と柄巻きの麻糸のほつれが見え、口の部分からヤスの三本刃が見えかくれしている。大猫はヤスに付着した肉片を舐めているのだ。
 悪夢のような昨夜の出来事は、夢ではなく現実だったのだ。
 孝平の視線に気づいたのか、ブチ猫は顔を上げて多くく口を開き、牙を剥きだして孝平を恫喝したが、それも一瞬、何事もなかったようにまたヤスにむしゃぶり付いていた。
 戸口からその光景を見た村の女衆の一人が孝平に忠告した。
「こいつは、気の荒い野良猫でな。人間にも歯向かう怖ええ奴だから、絶対に構うでねえよ」
 孝平は無言で頷き、すぐにでもここを去ろうと思った。留吉の葬儀にも参加する義理など何もない。
 孝平は部屋に戻り、ザックの整理をして帰り支度をしていると、背後に女の声がした。
「学生さん、お早う。差し入れ持って来たからね……」
 驚いて振り向いた孝平に、加助の妻の雅子が微笑んでいる。
「朝ごはんだよ」
「お早ようございます。加助さんは?」
「うちの亭主はとっくに畑だよ」
 加助の妻が腰を落として風呂敷を開き、弁当をとり出した。
 栗飯に山菜と鶏肉の煮物や香の物に焼き魚などがぎっしり詰まっていて、それを見ただけで空腹の腹が鳴る。
 村の女衆の一人が気を利かして熱い茶を運んできた。
「お雅さん、味噌汁代わりにお茶だけど」
「有り難う、お碕さん」
「だけど、学生さんの独り占めはダメだよ」
「分かってるよ」
。女が去ると加助の妻が言った。
「今夜はうちに泊まりな。きっとだよ」
 孝平がちょうど食事を終えたところに加助が戻った。
「いま朝飯か、おらはもう一仕事して来ただぞ」
 加助の妻が二人に缶ビールを手渡すと、加助が一気に飲み干した。よほど喉が乾いているらしい。孝平もこれで帰りそびれた。
 葬儀は午後になって始まった。
 昨夜の老僧のお供だった若い僧の読教が終わり、村長がとりし切った葬儀が終わると、棺を担ぐ男衆は、村役場の常備品だという白装束、額に三角布、わらじ履き、若い僧を先頭に旗をひるがえし、山裾の共同墓地に土葬すべく、草深い坂道を葬列が静かに下った。
 加助に誘われた孝平も、嫌々ながら白装束わらじ履きに着替えさせられて葬列に参加して、土掘りなども手伝い、留吉の野辺送りに一役買っていた。それでも特別な感情は何もなく、しいて言えば「田舎芝居」に参加した大根役者のような気分だった。

 埋葬が済んであばら家に戻り、塩を撒いて身を浄め、着替えが済むとまた酒が出る。村長の予言通り、また朝から続々と霊前への寄進の酒が集まっていたのだ。
 頃合いをみて、葬儀に顔を出さなかった村人まで図々しく集まって来て、二間だけの狭い部屋はまたいっぱいになり、天候がいいのを幸いに、外にむしろを敷いて飲めや歌えやの宴会になる。もはや、留吉のことなど誰も話題にしなかった。
 女衆も参加し、孝平もいつか調子づいて下手な歌など歌わされる羽目になり、「学生さんは音痴だね」などと拍手を浴びている。そのうち村長も詩吟をうなり、加助も演歌で続いた。村人にとっては葬儀もまた貴重なイベントだったのだ。
 それでも、酒の切れ目が宴の終わりであることは昨夜と同じで何も変りはない。
 それに、足場が悪いから夕闇が近づくまでのはお開きにしなければならない。
村長が立ち上がって葬儀が滞りなく終えたことへの謝意を述べ、参会者一同は満足げ気に語り合いながら帰路についた。
 早々と後片付けを終えた女衆も同伴の亭主や隣人と連れ立って帰ってゆく。
 加助と加助の妻も早々と帰っている。村人それぞれが駐車している我が家に立ち寄るため、その応対に忙しいのだ。
 加助が孝平に言った。
「一緒に帰るか?」 」
「いえ、眠いんでひと眠りしてから帰ります」
「バイクの酔っぱらい運転はダメだし、今夜はおらが家で夕飯と飲み直して泊ってけや」
「有り難いです。是非そうさせてください」
「囲炉裏の火の始末だけは頼むだよ」
 それを聞いた加助の妻も帰り際に、孝平の耳元でそっと囁いた。
「夜中に忍んでくからね」
 こうして孝平以外の姿が全て消え、山裾のあばら家に不気味な静寂が訪れた。
 孝平は睡魔に襲われたのか囲炉裏の脇で横になり、そのまま寝息を立て深い眠りに入っていた。
 
 孝平が目覚めたのは夜の寒さのせいらしく、囲炉裏をみると火が消えかかっていた。天井からつるされたランプはすでに脂が切れたらしく消えていて、壁掛けの獣油ランプの灯がゆらぎながらも部屋に淡い明かりを灯している。腕時計を見るとすでに9時過ぎ、約束だから加助の家には遅くなっても行くしかない。それに、加助の妻の囁きにも応えなければ男がすたる。
 囲炉裏に向かい、火箸で炭火をほじくり、細木をくべると徐々に炎がゆらぎ部屋が明るくなり寒さも和らいだ。
 見回すと、留吉が残した遺品の数々がみな孝平には物珍しい。
 村長が孝平に言った言葉が耳に残っている。
「あんたが発見者だ。形見分けに何でも持ってきな」
 その言葉を思い出した孝平は、家探しをして鹿皮の背当てを見つけた。
 両肩に紐があり、それを腰紐とみぞおち部分でクロスして縛ると背中にフィットして温かい。
 この背皮を身につけ猟銃を構えてみると、雪山を駆けて獲物を追う猟師としての留吉の雄姿に変身したような気になる。
 背皮を背にして一歩戸口から外に出てみると、夜の闇が四辺を包み、下弦の月に山々は黒い稜線を描いていて、初秋の夜風はすでに冷たく夜寒は肌を刺す。都会では晩夏でもここはすでに秋、冬の訪れも近いのだ。
 引戸を開けたまま部屋に戻った孝平は、ザックから肩紐付きの懐中電灯を出して点灯し壁掛けランプを消してから、囲炉裏の残り火に汲み置きのバケツの水を少しづつ掛けて火を消すと部屋中に灰が舞って視線が遮られた。だが、その時ふと、土間の隅の方角に妙な気配があり、おぼろげな視線の先に何かが動いたような気がした。
 懐中電灯を手に、上がりがまちに腰を下ろして暗い土間の奥を照らすと、光の輪に入ったのは、紛れもないあのブチ猫だった。

4、カメの中

 孝平は、そのブチ猫の視線の先に、ようやく気づく程度の細く青白い光が炎状になって見えかくれして揺らいるのを見た。この妖しい光には見覚えがある。
 孝平が栃木の片田舎での小学3年の頃、梅雨時の小雨降る学校帰りに、悪童仲間の一人が、「村の外れの墓地で幽霊が出るらしいぞ」と言い、孝平たち数人で、怖いものみたさに探検したことがある。森に囲まれた村の共同墓地は昼なお暗く、立ち入るだけでも怖いのに、木々の揺れる音も不気味で、孝平は体の震えが止まらなかったのを覚えている。雨は止んだが浮足立った一人が「もう帰ろう」と言ったとき、「あれは?」と他の一人がカン高い震え声で奥の暗闇を指差した。「どれ?」、全員が逃げ腰で近づくと、青白い炎が墓石の隙間を縫うように揺らいでいて、それが突然数個所から立ち上って孝平達を襲うように揺れたのだ。「出たア!」と恐怖のあまり我勝ちに逃げ帰ったが、ゲタや傘を置き忘れたものもいて大変な事件だった。
 孝平が夕飯時に幽霊を見たと話すと、父が笑った。
「それは燐光といってな、動物や人間の死体が腐敗した時に出るリンが、空気中で酸化して生じるただの発光体だよ」
 となると、ここに燐光があるということは、その下に動物か人間の死体の一部があるということになる。それは何だ? 
 孝平は立ち上がって再び壁側のランプにライターで点火すると、炎が音を立てて燃え、動物油の臭気と共に屋内に灯りが戻った。
 孝平はブルゾンを脱ぎ捨て、消した懐中電灯を肩に掛け、、そこにあった下駄を履いて土間に降り、壁に立て掛けてあるスコップを手に、光の揺らぐ土間の隅に近付くと、ブチ猫がうずくまったまま低く唸った。
 孝平は猫など気にせず、一気に湿った土を掘り起こした。
 そこだけ柔らかくなっていた土間の土は、たちまち穴をひろげ、やがてスコップに手応えがあった。
 手を休め、手ぬぐいで顔の汗をぬぐってから、肩から下げた懐中電灯を手に持って、穴の中を照らすと布らしきものが見えた。そこをこじって持ち上げると、スコップの先に、泥まみれの布と骨らしきものが絡んでいた。
 その瞬間、それを待っていたかのようにブチ猫が毛を逆立てて、孝平がまだ柄を握ったままのスコップの先に飛びつき、布に絡んだ骨を噛んだ。驚いた孝平は、思わずスコップを振るってブチ猫を離し、すかさずスコップを振り上げ、猫の頭を目がけて打ち下ろした。その一撃に手応えはあったものの急所を外したのか、ブチ猫は低い怒声を浴びせて素早く身をひるがえしてまた床下にもぐって消えた。
 孝平は、布と骨片を穴に落とし込み夢中で土をかぶせて穴を埋めた。これは何も見なかった、無かったことにするのだ。
 まさか、ここに死体があるなど考えたくもない。山で行方不明になった人の体の一部がここに埋められていたのか。
 ぐったりと、火の気のない囲炉裏端に座り、タバコに火を点けようとするが、ライターを持つ手が震えて点火するのに苦労した。
 それでも、一服して煙を吐くと、気持が少し落ちついた。
 孝平はもう加助の家に行く気も失せ、何もする気がなくなっていた。

 夜が更けると火の消えたあばら屋は冷える。孝平は付け木や薪を探し、濡れた灰だらけの囲炉裏に火を起こした。
 しばし、附木の硫黄の臭いが鼻についたが部屋の空気はたちまち暖かくなり、心も落ち着いて思考力も戻ってきた。
 もしかしたら、ここに埋めた死体の一部は、留吉が死闘で倒した大男の体の一部かも知れない。これならば納得がいく。
 孝平は、留吉の生きざまに興味津々で神経が高ぶり、もはや加助のことなど忘れ、留吉にのみ興味が湧いていた。
 留吉には何か秘密があるに違いない。
 そのミステリーを解く鍵はどこにあるのか。
 孝平は謎解きに挑戦すべく家探しを始めた。
 掘っ立て小屋同様だから天井裏はないし、押し入れには寝具や衣類に農良着の類や竹細工、土間に並んだ籠の中には竹細工や薬草、土間の壁には、猟銃二丁、釣り竿・玉網・四本刃のヤスなどの漁具、猟具の類が並び、台所側の土間には、漬けもの樽、食料、調味料や食器類、入口側の土間には作業足袋やわらじの束、雨具など、そして、部屋の中には、シナの木の皮を細く削いだツルで数匹ずつ腹の部分を編んだ燻製のイワナが囲炉裏を囲んで天井から吊るされている。これらが全てで怪しいものなど何もない。
 あとは一カ所、あのブチ猫が逃げ込んだ床下だけだ。
 孝平は土間に身を伏せて、懐中電灯で高さ四十センチほどの床下を照らすと木箱があり、意外に近い距離でブチ猫の目が光った。
 ブチ猫を無視して両手で蓋のない木箱を引き出すと、中には直径二十センチ程度の陶土カメが数個詰まっていた。その一つを取り出して蓋をとると、漁のための餌なのか、糠(ぬか)に草をまぶした小粒の肉片が詰まっていて、嗅ぎ慣れない異臭が鼻をつく。糠も草も臭気消しと腐敗を防ぐのに役立っのか? 少量の塩が混ぜてあるような気もする。
 ところで、この肉片は魚なのか獣なのか? それを確かめるべく孝平はカメの中に手を入れた。
 指に触れた肉片を無作為に十個ほど掴み出した時、床下で孝平の動きを凝視していたブチ猫が動いた。
 孝平が肉片の一つの中に、成人の男性らしき爪付きの指先を発見してたじろいだ瞬間、床下から這い出たブチ猫が跳んだ。一つをを手 孝平は、狂暴な野生の山猫の本性を知らなかった。奥信濃の山奥にはまだペット化しない猫も現存していたのだ。
 孝平がふと、猫の気配に気付いてふり向いた時はすでに遅かった。ブチ猫が跳んだ。
 ブチ猫は、疾風のように孝平を襲い、爪を肩先に食い込ませると、鋭い牙で首を噛もうとした。孝平は全身を振ってブチ猫の攻撃から逃れ、土間にあるスコップに手を伸ばすと、ブチ猫がそうはさせじと鋭い歯で孝平の右上腕部に噛みついた。孝平はとっさに左手でブチ猫の首を掴んで振り落とすと、ブチ猫は二間ほどの距離で牙を剥き毛を逆立てて孝平の隙をうかがっている。
 孝平は土間を走り、壁にかかった三本刃のヤスの柄を掴んでふり向いた。ブチ猫が跳躍するのと孝平がヤスを突き出すタイミングがピタ
ッと合い、手応えがあった。ブチ猫は背にヤスを突き刺されたまま孝平の腰にしがみつき爪を立て、孝平はヤスの柄を振るって腰から離し、そのままヤスごと持ち上げて、ブチ猫をを土間に叩きつけた。重い音がしてヤスが肉を千切って撥ね、ブチ猫は羽目板に当って落ち、血を吐いてもがいたが暫くして動かなくなった。
「ちくしょう!」
 孝平は猫にやられた不甲斐なさに口惜しさと痛みで自分自身に怒っていた。
 ジーンズが破れて大腿部から血が滲み、肩や右腕からも血が流れ、痛みも激しさを増すばかり、孝平は焦った。
 孝平もバイトの内容柄、緊急用の解毒剤や傷薬程度は持っているが、猫の爪と牙への対応は何もない。
 留吉が集めた薬草の中には止血や傷に効く薬草もあるはずだ。
 土間の籠や押入れから見つけた薬草炒り段ボールから、これと思える薬草を手で揉んだり噛んだりして傷口に貼った。

 オオバコ、エビス草、オケラ草、コレンギョウらしい葉がそれぞれ別々にビニール袋に入れられているが、何の草が何に効くかは孝
平には分からない。
は、とりあえず、緑が残っている菊科に似た葉を茎ごと口に入れて噛みほぐして傷口に貼り、手拭いを割いて繋げた包帯で応急処置を済ませると、どうやら気持ちは落ち着いて、酒の影響もあったのか、たちまち睡魔に襲われて深い眠りに落ちていた。
 遠ざかる意識の中で、いた。

5、出漁

 早い朝、孝平は目覚めた。
 まだ外は暗い。立て付けの悪い雨戸の隙間からは弱い外の明るみが洩れ入っているだけだった。
 目覚めの気分は、すっきりしていて快い。薬草の効き目もあってか、傷口の痛みも癒えている。
 頭の中だけは、まだ、夢見心地の靄がかかった部分があるが、ハイの気分にさせる脳内物質エンドルフィンでも浸出しているかのよ
うに、はしゃいだ気分になっている。まるで、遠足を前にした子供のようでもある。
 孝平は、土間に下りてカメを取り出した。
 奥信濃の大自然をそのまま活用した養魚場があるとしたら、獲物を飼育し、自由に、必要に応じて供給することが可能になる。
 全ての条件が整った天然の漁場、それこそ川漁師にとっての夢、留吉は、それを実現したのではないか。
 しかも、他の釣り人には釣果を上げることが困難なように、特殊な方法で餌付けをする。この仮説は孝平を興奮させた。
 この顛末を見届けてから帰ろう、と彼は思った。
 この餌で留吉は尺(三十センチ余)以上に成長した美味なる獲物を揃え続けることができたのではないか。
「天然魚を飼育する」
 彼等の争いは、あるいは漁場をめぐる争いだったのではなかろうか。孝平は、それを確認する気になっていた。
 川漁師などに、まったく興味をもたなかった孝平にとって、この心の動きはまさに狂気の沙汰としか思えない。
 彼が、一つの目標を見出したような気がして勇んでいるのも、妙な薬草のせいかも知れない。が、それでもいい。
 ランプに火を点そうとして油が切れているのに気付き、かれは懐中電灯をとり出した。
 知らず知らずに口笛を吹いている。
 孝平が釣ったことのある川魚といえば、せいぜいハヤ、オイカワ、タナゴ、ナマズ、ライギョ、フナ、コイの類いでしかない。それが今か、源流の獲物を追うことになる。
 漁具を探してみる。形見は分けで、いいものは村人が持ち帰っていたが、それでも使えそうな物もある。
 手製の継ぎ竿を二本、四本刃のヤスを三本、大きめの手網を一つ用意した。それに、使っていない仕掛け巻きにきちんと釣り糸と目印に鋭い鉤が結ばれている。釣った獲物を証拠に一、二尾は持ち帰るとして魚篭(びく)が必要になる。土間にあった留吉が使い古した、むしろを二つ折にして両側を細縄で編んだだけのカマスがあり背負い縄も付いている。これなら荷物入れとしても獲物入れとしても役立つ。
 食糧は、とりあえずは葬儀の残りものを集めれば間に合う。野宿を一度はするとして米、味噌、飯盒、山ナタ、火を燃やすのに便
利なツケ木、それらがあればいい。ライター、雨具、電灯、ナイフ、虫除けスプレー、携帯カイロなどは孝平が常備している。
 水質検査用のPHメーター、温度計、水を持ち帰るポリ瓶も荷物に入れる。携帯用非常食も日頃から用意してあるし地図も磁石もある。寝袋はないが焚火で暖をとれば一夜はしのげるし、雨の場合は、いつもの通り、岩陰がなければ大木下で雨具で身を包みホットカイロで暖をとる。雷が落ちたら仕方がない。
 服装は、猫との闘いで破れたシャツとジーンズは脱ぎ捨て、留吉の川漁用の仕事着を探した。
 寸づまりで窮屈だが、筒袖の山着に細身のズボン風猿っぱかまを履き、その上に紺の脚絆を巻くと、どうやらサマになった。手っ甲もあった。 足まわりは自分の山と渓流兼用シューズに、さらに滑り止めにわらじを巻く。
 こうして準備万端整ったが、小男の留吉の着衣を並みの孝平が身につけると、多分、人が見たらこっけいな姿にしか映らないはずだ。
 これでカマスを背負って土間を歩いてみると、重心のバランスが崩れて歩き辛いことが分かり、残念だが自分の背負い慣れたザックに全部荷物を入れ、竿もヤスもそこに立てて入れた。カマスを諦めた以上、獲物も持ち帰らないかも知れない。
 それに台所から手ごろなタッパーを探してカメの中の肉片を詰めて餌の準備も整った。
 あとは、バイクを預けてある加助にメモを残した。
「少し奥の沢で試料を集めて来ます。一泊ですから心配無用です」
 土間に倒れていた猫の姿が見えない。多分息を吹き返して床下にでも身をかくしたのだろう。孝平はホッとした。やはり殺生などは
したくない。
 孝平は懐中電灯を手に戸外に出て、夜明け寸前のおぼろげな朝霧の中を歩き出した。
 加助の家に預けたバイクで行けば、留吉の死体を発見した場所までは歩かないで済むが、それでは川漁師・留吉の気分にはなれない。ここは山道の最短距離を歩いて釜ケ沢の上流に入るのが最善と孝平は考えた。
 その懐中電灯の光の中で足元の虫が逃げて跳び、夜行性なのか早起きなのか鳥の羽音がする。
 山道をおおう梢を通して夜明けが近づいていた。
 かなり以前から同じ地域を歩きまわっている孝平は、なんとか地理が頭に入っていて、暗い道でも不安はない。
 夏休みももうすぐ終わる。アルバイトは今回で打ち切り、松本へ戻ったらすぐ栃木の親元へ帰って残り少ない夏休みの間だけでも親
孝行をしよう。
 殊勝なことを考えた孝平は、冷気の中を鼻唄まじりで歩く。山道を歩きながら、山ブドウの蔓をナイフで切り落とし、節から節までの間の茎を割ると二センチほどの白い虫がいた。触れると柔らかい。話には聞いていたが、なるほど、これが渓流釣りの餌として川虫に次ぐ最強の餌になるブドウ虫なのか。それを着衣の上に重ねたベストのポケットに幾つか入れる。肉片との優劣を試してみたいのだ。
 やがて、あたりが明るくなったので、懐中電灯をザックの横ポケットに押しこむ。幾重にも重なる山々の稜線が夜明けの空に緑濃く浮かび、杣道には早くも紅葉した枝葉に朝の陽がまぶしい。
 木樵り道なのか上流に向って山道が続いている。一度立ち止まり、位置を確かめてからは歩くピッチも早くなった。汗が滲み出る。歩き慣れないはずなのに足が軽い。 対岸には、この近くまで4WDであれば乗り入れることのできる林道があるが、孝平の歩いて来た側には車道はない。留吉の死体を発見した地点も、沢に下りず山道で通過した。
木の間洩れに穂高連峯、日本アルプスの景観が見えかくれする眺望に恵まれた山道だった。だが、晴れ間が雲で消されつつある。
 小休止も入れて六時間ほど歩いてから留吉は沢に降りた。
 崩れやすいゴロ岩と灌木の群生する難所だったが、ヤブ漕ぎをしながら慎重に降りた。道がないだけに眼下はるかな沢に降り立つの
は容易なことではない。
 やはり、中流地帯の降り口から沢に入り、ヘツリや高まきをしながら上流目ざして遡行するべきだったと孝平は思った。。
 留吉のあばら家の壁にあったロープの束は、山道で奥まで行って目的の谷への上下行に用いるもの、と、気付いたがすでに手遅れ。
それでも、一時間ほどで沢に降り立つことが出来た。
 見上げると両側共崖は直角に近く、雲が近くに迫っている。それだけ谷が深く視界が狭いのだ。
 雨が降ったら、とても逃げられそうにない。大雨が予測できたら上流へと逃げて隠れ場所を探す。下へ逃げて鉄砲水に追われたらひ
とたまりもない。
 胸までの徒渉を何度か繰りかえしながら、孝平は進んだ。大石の多い渓相で水は冷たい。紅葉を楽しむ余裕などもはやなかった。
 孝平はひたすら上流へ向った。谷はますます暗く深くなった。小滝があれば岩にしがみついて登攀し、徒渉不能な深淵は荷を背負ったまま泳いで遡行した。
 上流になるにしたがって岩壁は、滑りやすい逆層の粘板岩になり小滝ですら直登できず、滝横のブッシュを高巻きして上流に出なけ
ればならない。余分な時間が費やされた。
 それでも、何ヵ所か、傾斜からみて崖上へ逃出できそうなルートを見つけたので、少しテスト的に登りかけてみると、そのガレ場は、崩れやすい地質の洪積層砂礫土砂で、すぐ足元が崩れてとても上までは登れない。ましてや雨のときは土砂に叩かれてしまう。
 川石が大きくなった。源流が近い。谷がさらに深くなり、滝の音がした。
 しばらく進むと大きな淵の下に出た。沢が二方から流れ落ち、三米ほどの滝になっている。左は大明寺山、右は金松寺山側から落ちている。右側の沢は川幅の割に極端に水量が少ない。
 孝平は今たどって来た谷筋をふり返った。
 淵から流れ出る水は、音を立てて瀬を走る。二つの沢から小滝に落ちる水の量の数倍もの水が淵から流出している。
 ここは、淵の底に湧き水がある、釜(かま)場だったのだ。
 多分、職漁師はここで獲物を得ていたのだろうか。留吉の漁場は、この淵だったのか。
 淵下の瀬を横切って岩に身をひそめ、じっと深い淵をのぞくと、型のいいイワナが白い泡の下で群泳している。水が澄んで白い背の
斑点がはっきりと見えている。
 ふと孝平は、実家のある栃木県西那須野の漁協で役員をしていた叔父の話を思い出した。その漁協の管轄内に蛇尾(さび)川という
川がある。その川は晴れると上流の水が地下を流れ、雨が降ると川になる。カレ沢のときはまるで魚のいない川のようだが、山奥に入
るととんでもない深い淵があり、沢の魚は全部そこに潜む。 ただし、そのかなり下流にちょっとした滝つぼがあって、そこの
魚影に騙されて釣り人はそこで竿を出し、上まで登らないという話を聞いた。
 大物の釣れる場所に辿りつくには、水がなくても騙されないように、そこから難所を越え、登りつめなければならない。
 孝平は気持をひき締めて、小滝の横をまいて、チョロチョロ流れの右側の沢に向って登った。
 大イワナは、高い滝でも、滝壷の深さが同じくらいあれば水量が増えたときに、水の中で勢いをつけ助走して一気に跳ね上がる。
 しかも、魚体が大きいほど跳躍力は高くなるから、大物は自由自在に上下流を走るという。
 孝平は、ほとんど水のない沢を二時間ほど歩き続け、不安になっていた。この上には水はないのかもしれない。と、すれば伝説の魔
の淵は、やはり先刻通過したあの小さな滝ツボだったのか。頭上で小枝のきしむ音がした。見上げると、ムササビらしい小動
物が滑空して対岸の茂みに姿を消した。
 ミヤマ柳やトチの木の枝が沢を包んでいる。加助の昔話だと、淵の上に高くそびえる崖があり、そこから役人に追われた村人が身を
投げたという。そうすると先刻の淵では情景が違ってくる。孝平は歩みを早めた。
 濡れた着衣も乾き、汗が流れ、腹の虫が鳴いた。小休止して食事をし沢の水を飲む。
 冷たい水がのどに沁みる。再び歩き始める。
 右側の断崖の岩がえぐれている地点で孝平は足を止めた。水面から二米ほどの岩場に焚き火の跡がある。雨露が凌げる広さがあり、
よく見ると雑木で組んだ小さな棚がある。多分、魚を焼いて干すのに用いたのであろうか。
 これで、雨のとき逃げ込める小屋を得た。耳を澄ますと川音にまじって滝の音がする。
 岩角を二ヵ所ほど曲がると水が見えた。対岸に渉ると膝までの深さだった沢の水が、たちまち腰下にまで深い沢になっていた。
 流水はこの下で、小石の間を縫って地下に吸いこまれている。
 流れは意外にきつく足元がとられそうになる。
 孝平の脛になにか当る気配がした。
 足元をすかして見ると、まむし除けに巻いた紺脚絆のまわりに、良型のイワナがまとわりついて泳いでいる。魚影が濃い。
 胸ビレの前縁に白い線、背に黄味を帯びた斑点、まさしくゼミの教授が図解してこわした天然イワナだった。
 よく見ると、背ビレを水面に出して遊泳し、斜行したり、跳躍したりして孝平を歓迎するかのように、周辺に群れている。
 それにしても、人影を恐れないイワナなどいるのだろうか。渓流魚の中でもとくにイワナは警戒心が強く、人の気配を察しただけで
も岩蔭にす早く身をひそめ、数時間はそのまま姿をあらわさない習性をもつ。
 孝平は、あることに気付いて愕然とした。
 魚群が、孝平を包んでいる。孝平はあせって、水際の岩場を歩ける場所まで急いだ。

 

第四章

 1、罠

 孝平が急ぐと、同じ速度で魚の群れも動く。
 孝平が立ち止まると、彼等はしらじらしく岩蔭で休んだり、仲間を追って旋回したりして遊んでいる。
 滝の音が大きくなった。
 孝平が休憩のたまに岸に上がると、魚群は一尾残らず上流に消えた。
 しばらくしてまた浅瀬を歩き、緩やかなカーブをっ曲がると、目指す釜が淵の滝が目の前に現れた。
 見上げるとはるか上空から、しぶきを上げて大量の水が流れ落ち、滝は白い奔流を吹き上げ、白泡は底見えぬ深淵をさらに包みかく
している。瀑風と冷たい霧が孝平を襲った。
 孝平は、最後の腰までの瀬を渡って右岸の狭い岩場に這い上がった。ここからは淵が一望できる。
 ここが昔、逃げ道を失った村人が飛び込んだ滝ツボだとしたら、まさしく死の魔境としかいいようがない。
 数十米の空間を白い壮厳な水の壁が、不規則な模様を描いて重厚で青い深淵に崩れ落ちている。さすがに魔の淵、人間の命や魂
などひとたまりもなく吸い込まれて行く。孝平の胸の鼓動は滝音以上に高まった。
 孝平が狙う想像上の獲物は、まさしくこの中にいるはずだ。それが、人間の姿を見ても恐れも隠れもしない相手であれば、必ず姿を表して来る。それを待って堂々と勝負し仕留めるのだ。
 孝平は深呼吸をして気持ちを整え、獲物との対決を決意した。
 岩場の上に持参した三本のヤスを並べ、いつでも使えるように用意し、大きい手網(たも)は腰のベルトに差して手尻の紐をベルトに巻いた。
 留吉の手製の太い竹竿をつないで、用意した仕掛けを結び、準備ができたところで深呼吸をした。
 まずはベストのポケットからブドウ虫をとり出しtハリ先に刺して水面に投げた。
 渓流のイワナがブドウ虫を好んで食べる程度の知識は釣りマニアでもない孝平でも知っている。孝平は釣りについては素人でさほどの知識はないが、子供時代には小魚を釣って遊んだ程度の体験はある。
 渓流の魚は、上流を向いて泳ぎながら、餌の流れ落ちてくるのを待つ習性がある。空腹時には、自分が産んだ小魚でも食べる貪欲なイワナが好物のブドウ虫を食わないはずがない。
 淵から瀬に落ちる流れを瀬頭というが、大物を狙うときはこの最前列、すなわち滝の落ち込みの白泡が渦巻くあたりから餌が自然に流れるように見せる工夫が必要になる。孝平は、聞きかじりの浅い知識を根拠に、岩蔭に身をひそめ、まき返しから滝ツボの中心に向って餌が流れるように竿を振った。
 竿いっぱいに底へ送りこんでも、餌は大物のひそむ底石にまでは届くはずもないが、餌を発見して急浮上する食性があるだけに、充
分鉤掛かりする可能性はある。
 しかし、滝しぶきに竿があおられるだけで何の反応もない。ここでの並型のイワナは目の前に群れているのだが、これらを相手にする気はないのだが、これに無視されるのも面白くない。
 そこで孝平は方針を換えて、まず、この群れイワナから釣ってみることにした。ところが何度竿を振っても見向きもされず、ブドウ虫では釣れないことが分かった。
 孝平は、ポケットのブドウ虫を全部水面に撒いた。白い虫はゆらゆらと流されなてゆく。魚の群れは何の反応も示さず、悠々と群れ泳いでいる。これで一つの実験は終わった。
 
 ふと、首筋に水滴の落ちるのが、滝しぶきと違った感覚で感じられて孝平は空を見た。
 雲が低く流れて、少しずつ雨が落ちて来る。
 時計を見るとまだ正午前、夕暮れまでは充分に時間はあるが、天気が崩れるとなると決着を急がねばならない。
 孝平は、用意した肉片を千切ってハリ先にチョン掛けにして滝下に流しこむと、そのまま竿先がしぼりこまれた。
 滝ツボ下の白泡に突っ込んで抵抗する獲物によって穂先は水中に没したが、それを弓なりに耐えていると、やがて力つきたイワナが暴れながらも水面に顔を出した。空気を吸わせてしまえば魚は弱る。
 手網を出してようやく取り込むと、40センチ級の見事なイワナの大物で、手網から尾の部分が入りきれずに網からはみ出して暴れている。これが水中で群れている人肉でえ付けされた並型のイワナなのだ。これは大切な証拠とし持ち帰らなければならない。ひとまず石で頭を叩いて新鮮なうちに締め、岩陰に投げておく。それを数尾続けた時に、雨が落ちてきた。
 山の気候は変りやすく、どんなに晴れていても油断はならない。万が一、谷に入って雨雲を見たらすぐに崖を登らないと命に係ることになる。これは孝平のバイト仕事ではイの一番に頭に叩き込まれていることで、雨雲を見たら沢を出なければならないことは、骨身に沁みている。そこには例外などは何もない。
 孝平は、今までにも何度かその教えを甘く見て危険な思いをしているだけに、行動は早かった。釣った獲物を持参した新聞紙でくるんでリュックに押し込み、もうヤスも竿も手編も無用だから岩の上に置き、残っている肉片を全部つかみ出して水面に投げると、魚体が群がって餌を漁り、水面がはげしく泡立った。
 孝平はデジカメを出して餌を漁る魚群を撮り、滝と滝つぼの城泡を素早く撮った。
 餌はたちまち消え、魚群も平常に戻った。
 孝平の推理通り、この淵の魚は、恐ろしいことに人肉で餌付けされていたのだ。その証拠は写真と獲物と孝平の説明で充分に人々を納得させる自信はある。
 ただ、魔の淵の怪魚伝説については、残念ながら今回は何の手がかりもなかった。多分、あれは一般の人を釜が淵に近づかせないための川漁師の生活の知恵だったのかも知れない。
 ここで飼育した天然魚を留吉は、好きなときに好きなだけ回収してそれを売り、それを食べる客がいた。
 この天然の漁場は一体いつの時代から続いていたのだろうか。恵江戸時代の飢饉で、村人が身を投げた時代からなのか?
 孝平は、この沢を遡行した先刻に、留吉が残した崖への脱出ルートを数個所ほど見つけてある。その最短距離にある崖道は、ここから50メートルもないだけに急ぐこともない。
 そこは豪雨で増水しても登れるように、手ごろな灌木が林立していて不安はない。
 しかも、そのルートの崖には必ず水が這入らないように工夫した洞穴があって、増水が少ないはここで野営して水の引くのを待つという、職漁師の生活の知恵なのだ。
 孝平は、そこには立ち寄らず一気に崖を上がって林道に出るのが危険を避けるには一番と考えた。 これなら安全だ。
 いつもならバイクで走る山道を、沢歩きで最短距離の往路と違って、山道を迂回しての復路となると倍近くの距離を歩くことになる。
 それでも、帰路は下り坂だから疲労度はさほどでもない。
 村に伝わる怪魚伝説は、この天然の漁場を代々守り続けた特殊な川漁師が流した風説に過ぎなかったのだ。孝平は目的を果たした爽快な気分で下流に向かって、瀬を渡るべく足を踏み入れ腰の深さまで進んだ。増水する前に崖をよじ登らねばならない。
 そのとき、雨の音や滝の音に交じって上流の崖上から土砂が崩れ落ちる水音がした。ふり向くと土砂に混じって黒っぽい蛇が水音高く飛沫を上げて淵に落ち、鎌首を持ち上げて二米はあろうかという体で悠々と身をくねらせて泡立つ淵を横切っている。
 突然、孝平の目の前1メートルもない至近距離の水面が盛り上がり、大きな背びれと折れたヤスを数本背負った巨大な魚体が反転して流れを遡って大蛇に襲い掛かり、大蛇共々水中に没した。
 一瞬のことで信じ難い出来事だったが、伝説の怪魚は存在した。
 孝平は身震いして足を止め、恐怖の眼で水面を凝視した。
 暫くして大蛇は浮上したが、全身がばらばらに食いちぎられていて、それに魚が群がり、頭部を含む上半身尾の一部だけが生きていて、早いピッチで狂ったように身をくねらせて流れたが、すぐに魚群に包まれて消えた。怪魚は大蛇を自分の獲物にしたのではなく、小魚(小さくはないが)の餌として細かく千切って食べやすくして与えている。
 孝平は現実に戻った。
 怪魚はいた、まさしく実在した。しかも怪魚は、孝平の行動を読み、帰路の水中で襲うべく待ち伏せていたのだ。
 加助の話によると、重傷で死んだ釣り人の臨終間際に、「釜が淵下の瀬を渡ろうとして何者かに襲われた」、との証言もあるが、死の間際の混濁した意識でのうわごとだっただけに、誰もその話を真に受けてはいない。
 だが、これは事実、この瀬が罠だったのだ。
 孝平は、夢中で流れに逆らって引き返し、岩に這い上がってリュックをかなぐり捨て、置き去りにしてあった四本刃のヤスを握って白泡の沸き立つ深淵の底を睨んだ。だが、無数の水泡と群泳する魚影が邪魔して魔の淵の底までは視界が届かない。

 

 2、対決

 滝しぶきと雨滴とでけぶる水面下を凝視すると、その視線に気づいたのか、イワナの群れの下から背に折れたヤスを背負った巨大な魚影が悠々と浮上してきて、水面下30センチほどの至近距離まで接近して孝平を睨んで口を開き、鋭い歯を剥き出して孝平を威嚇した。その態度は明らかに挑発でしかない。
 1メートルをゆうに超す巨体は苔むすように黒ずんでいて、川魚というよりは水棲獣という表現が相応しく、孝平は息をのんだ。
 孝平の背筋に悪寒が走ったが、たかが川魚、人間を恫喝するなど身のほどを知らなすぎる。
 孝平は、衝動的に相手の脳天めがけてヤスを突いた。怪魚は軽く身をかわし、鼻の先でせせら笑うように浮上して跳躍し、空中で素早く巨体を反転させて尾びれで孝平の顔面を強打した。その衝撃で岩に叩きつけられた孝平の胸は恐怖と怒りに震え、同時に燃えた。
 孝平は水際に立ち、怪魚目掛けてヤスを振り下ろした。手応えはあったが、皮が硬くてヤスの刃先を受け付けない。孝平は、怪魚の反撃で何度も倒されたが、ひるまずに闘い続けているうちに勝機を見つけた。相手の跳躍する勢いを利用するのだ。
 孝平が水際に顔を出すと、案の定、怪魚が少し身を沈めてから跳躍した。孝平は怪魚が反転する瞬間を狙って、頭部目掛けてヤスを突いた。タイミングが狂ったが手応えは充分にあり、ヤスは背に近い腹部に突き刺さっている。ただ、うかつにも手を離すのが遅れたため孝平の体が宙に舞い、水面に叩きつけられた。
 慌てて岩場に戻るべく必死で泳ぐ孝平の目の下で、怪魚が孝平を襲う気配を見せたが、魚の弱点でもある腹部に刺さったヤスが邪魔したのか動きが鈍く、辛うじて孝平の左足を噛んだのが精一杯、孝平の右足の蹴りですぐ口を離した。
 すかさず岩に這い上がった孝平は、足の痛みなど忘れて二本目のヤスを握って水中を睨んだ。その目は常軌を逸してギラギラと輝いて異様に吊り上がっていた。それは、闘争心を失っていた格闘家が、マットに倒されてから闘魂をとり戻したように闘志に火がつき、孝平は壮快な気分に浸っていた。
 もはや恐怖はない。獲物を仕留めるだけだ。怪魚も一休みして動きを取り戻していて形成は五分と五分、ここからが正念場となる。
 怪魚が跳び、孝平が突くが、怪魚の動きが変幻自在になって次の一撃が決まらない。孝平の手が空転するとその手を怪魚が襲う。激闘は続き時は流れた。
 雨は烈しさを増し、岩の上に立ちはだかる孝平の足元にも濁流は迫っている。
 はじめは岩の上の孝平が優位にあったが、うえまで水位が上がると、当然ながら怪魚が有利になる。今はまだ勝機は充分にある。
 相手の疲れに乗じて孝平から仕掛け、相手が跳躍したところを的確に狙って二本目のヤスを背ビレ近くに突き刺し、すぐ手を離したから水中に引き込まれることもない。二本のヤスは相手にかなりのダメージを与え、動きを鈍らせたのは確かだった。
 だが、怪魚は岩に体当りして刺さったヤス二本の柄を折り、身軽になったところで深淵に身を隠した。しばしの休戦で疲労を回復させる策に出たのか。それとも増水で孝平が流されるのを待つのか。あるいは、深手を負っている相方の様子を見に戻ったのか?
 このままでは、もはや孝平に逃げ場はない。怪魚を倒して早瀬を泳ぎ下り、川漁師の通い道を探して崖上に脱出するのだ。
 孝平は三本目の最後のヤスに勝負の全てを賭けることにした。これで仕留めなければ自分が死ぬ。
 それでも孝平は勝利を確信していた。怪魚は傷つき疲れている。孝平もよろめいてはいたが闘魂には一点の曇りもなく、気力も充実している。
 やがて、体力を回復したのか折れたヤスを背負った雌ヤマメらしい怪魚が戻って、戦いは再開された。
 相手は、二度の失敗に懲りたのか、孝平の挑発にも乗らず、跳躍は低く速くなってヤスで突くタイミングが外され、一方的に孝平が叩かれ倒され続けた。さりとて、水際から離れれば勝機はなく、増水での自滅を待つだけになる。
 孝平は一か八かの決着をここでつける気になった。
 まもなく伝説の魔の淵の主との死闘の結末が来る。
 孝平はヤスの柄を両手でしっかり握りしめて頭上に振りかぶり、雨滴で曇る水中を睨んだ。その上で、すでに傷つき出血している左足を寄せ餌にすべく、ゆっくりと水に浸けた。
 策は当たった。誘いに乗った怪魚が深淵から猛烈な速さで浮上して孝平の足に噛みついた。その瞬間、孝平の振り下ろしたヤスが怪魚の脳天深く突き刺さり怪魚が孝平の足を加えたまま暴れた。孝平もヤスの柄を離さず、大きく息を吸って水中に飛び込んだ。怪魚と孝平の両者は水中で回転してもみ合ったが怪魚は食いついた口を開かず、孝平はヤスの柄を離さずで、どちらも音を上げない。
 高校生時代、水泳の中距離選手だった孝平は肺活量は4,500mlと一般男性平均の3,500を遥かに凌いでいて水中でも不安はない。しかし相手は滝つぼの主だけに孝平を深淵に引き込もうとし、孝平は浮上して空気を吸わねばならないから、ヤスを持つ手に力が入る。
 両者の必死の戦いで、急所を突き刺されている怪魚が先に力尽きた。孝平を噛む口が緩んだ瞬間、孝平が暴れると足が抜けた。孝平は思いっ切り足を煽って水面に浮き、息を吐いて滝の水の混じった空気を吸った。水中で争っているわずかな時間の間に、孝平は落下する滝の近くまで引きずり込まれていたことに愕然とした。あとは、このヤスの柄を離さず、増水した釜ケ沢を流れ下って赤岩村に凱旋し、村長や加助、駐在などを驚かせるだけだ。雨は止まず荷を置いた岩場も水没し、孝平の荷は、この大物の川魚だけになった。ひとまず休憩しないと体が持たない。
 左手で握ったヤスの柄の下で暴れる獲物に噛みつかれないように、気配りしながら淵から岸へと流れに逆らって泳いだ。孝平の左足の感覚はすでに失われているが、それでも勝った喜びは格別で、足の痛みも忘れさせてくれる。
 孝平は、断末魔のあがきで暴れる重い獲物を刺したヤスの柄をしっかり掴み、右手右足で水を蹴って右岸に近づいた。
 その時、異変が起きた。
 何者かが水中を走り、猛烈な勢いで孝平の腰に体当りしたのだ。
 その衝撃で思わずヤスの柄を離してしまい、すぐ手を伸ばしたがその手を何者かが噛み、左手の小指が失せ、血が水に溶けて赤い筋になって流れた。
 一瞬の間で何が何だか理解できなかったが、水中を凝視して事態を知った。
 いま戦った相手とは違う大型の魚影があり、孝平の手から逃れた相棒を労り護るように寄り添って滝の裏側の深淵に沈んでゆくのが見えた。そのとき深淵の底に石か人骨かは知らねども白い物体が敷き詰められているのが見えたが、それも一瞬、濁りと水泡と魚影が邪魔して視界を遮った。獲物を奪い返された孝平は、この場から逃れるべく岸に向かって泳いだ。
 孝平と闘った怪魚はずんどうで胴長の雄イワナだが、怪魚の片割れは明らかに魚種が違う。パーマークこそないが青みがかった豊潤な胴太の体形からみて雌ヤマメとも思われる。だが、魚種の違う渓流の覇者の雄雌が結ばれるなどあり得ない。それでも、孝平の傷の痛みからして夢ではないのは事実なのだ。無事に帰れたら、これをどう説明すればいいのか。
 

ヤマメ釣りの基本&仕掛け – 渓流の女王にチャレンジしてみよう ...

その雌ヤマメと思しき怪魚の片割れが、相棒の安全を確認したのか反転して浮上し孝平を襲った。
 ここからが修羅場だった。孝平には武器がない。ブルゾンのポケットにはスイス製の万能ナイフがあるが、もう取り出す時間もない。 孝平は一方的に被害を受け、喉だけは手で庇ったが体のあちこちを噛み千切られ無惨な姿を晒し続け、このままでは逃げ切れないと悟った時、一発大逆転の荒業で勝負することに覚悟を決めた。肉を切らせて骨を断つ、これ以外にはもう生きる道はない。
  孝平が傷だらけの左手を出すと、怪魚の片割れが勝ち誇ったように大きく口を開いて襲い、鋭い歯がが光った。その瞬間、孝平から先に延ばした左手を怪魚の口に突っこみ、左エラから手先を出して、さらに肩先までを口に押し込み、暴れる魚体を抱えて相手の抵抗を封じ、一気に流れに乘って下流に流され窮地を脱した。
 これで、相手は換わったが獲物は確保したが、本当の死闘はここからだった。
 闘いの場は、濁流になりつつある早瀬に移り、二体は流されながらも死闘を繰り返した。
 獲物を確保した孝平は、雨中の濁流に流されながら怪魚の目を見た。その目が孝平を憎悪と怨みで見据えている。その目は留吉の通夜の晩の幻想でみた妖しげな女にも思えてくる。あれは正夢か幻覚か、または現実だったのか?
 この魚体はしなやかでしっとりとして人肌のように柔らかい。 怪魚は歯を上下させて孝平の腕を食い千切る策と、全身をくねらせて孝平を川石に叩きつけて致命傷を与えるという二面策で来たが、孝平はひたすら左腕を揮って怪魚の頭部を岩石に叩き続けた。
  怪魚は必死に孝平をふりほどこうともがいたが、口からエラへと手を差しこまれては動きがっとれず呼吸も自由にならない。暴れる力が劣え、一気に力が抜けた。もはや孝平の腕を噛むことさえできなくなっていた。
 水面と水中を流され岩に叩きつけられ回転しながら孝平は勝利を確信した。
 水を呑み、岩に打ちつけられ、流され、小滝を落下し、滝ツボにもまれ、気が遠くなりまた目覚め、雨の鎌ヶ沢をどこまで流される
のか、往路に辿ったカラ沢も、水満ちて流れぬけている。
 二体が鎌ヶ沢中流を落ちて何とか岸の岩場にしがみついた時、雨は止み、夕暮れが谷を包んでいた。長い闘いだった。
 孝平の左手は、怪魚のエラの内側にくし状に鋭く尖った気管部の突起した骨にも当ていて出血も痛みもひどかった。
の赤い筋が流れを染めている。
 もはや満身創痍ではあったが、この大きな獲物を仕留めた爽快感は、多少のケガや苦痛など何でもない。
 孝平の心は歓喜に震えていた。
 孝平は獲物をしっかりと抱えながらも、右手両足をフルに活用して何度も岸への接近を試みたが、急流の中では石が滑って手で動きをとめることは不可能なのだ。鎌が沢の中流まで流されて、川幅が広がって流れが緩やかになり、平坦な岩場か続くところで、孝平は右足を底岩にかけ、身を縮め、全身をバネにして横倒しに水中を跳ねた。ここで二体は流心から外れ、必死で斜行して右岸の岩場にしがみつき、長い川下りの旅は終わった。
 孝平は岩場に倒れたまま、空を見た。すでに雲はなく崖上は夕焼けの気配だが山の暮れのは早いから早く沢から脱出しないと凍死することになる。孝平は、力を振り絞って瀕死の獲物を岩場に引き上げようと試みたが、ふと考えが変わった。
 すでに怪魚の抵抗は終わり、勝敗の結果も出ている。
 孝平はニ尾の怪魚に勝ち、留吉の仇も討った。わざわざ死体を運ぶこともない。これらの事実を公表する必要もなく、名誉欲や売名行為とも無縁なのだから、これ以上の殺戮も必要ない。
 孝平は、魔の淵・鎌が沢伝説の真実を知った。これだけで充分なのだ。
 この沢の主の片割れをこの手で殺すには忍びない。ここで解放すれば、蘇生する可能性もある。
 孝平は右手を大きく振り上げ、「ウオー」と勝利の雄たけびで吠えた。すると、あちこちから山犬の遠吠えが応じた。
 ついに勝った!
 孝平は伝説の魔の淵の怪魚に勝ったのだ。

 

3、終章

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 孝平は、満ち足りた心で恍惚としていた。かつて味わったことのない充実した達成感で満足していた。
 いま、この手の中に、命がけで手に入れた素晴らしい獲物が、まだ息づいている。
 勝利の快感に酔うというのは、こういう気持だったのか。
 全力をつくして闘う男の本能も、忘れていた闘魂も、今は存分に味わい燃焼しつくしている。
 孝平は今、欲しい玩具を手に入れた子供の頃の満足した気持を味わっている。幼い日に母に抱かれた思い出、兄弟で遊んだ日々、父親に連れられて魚釣りに過ごした夏休み、懐かしい過去が脳裏に浮かんでは消え、また浮かぶ。
 孝平は、つい数日前までの怠惰な日々を忘れていた。
 もはや、うす汚れた見栄や欲望、よこしまな心、それらが浄化され、忘れていた純粋な魂の叫びを孝平は見つけた。これが生きる喜びだったのか。
 疲労と寒さで意識が遠のくが、孝平は安堵した心で獲物を抱きしめている。その睡魔のおとずれの中で官能と幻覚が襲ってくる。
 閉じた目に、通夜に垣間見た妖艶な女が浮かび、その裸身が孝平を包んでいる。弾力のあるやわ肌が密着し。口からエラに差し込んだ手を通じて粘っこいぬめりが快い感触を呼ぶ。
 ひもじいまでに飢え続け、求め続けて来た自分の自由になる女体が腕の中にいる。

鹿児島のタコクラゲと人魚 - YouTube

 冷えていた肉体はほてり燃え、快感を伴う律動の中で、とめどなく打ち寄せる官能の波にもまれ震えた。孝平の情念は本能のおもむくままにさまよい、あこがれてやまなかった煩悩の源泉をつかみとって自由だし、何の束縛もない。孝平は、間断なく訪れる快感に酔いしれ、白痴のようにだらしなく弛緩し、あるいは陶酔の中に埋没した。
 しかし、それも一瞬、このまま睡魔に襲われたら死ぬことに気づき、自分で頬を叩いて眠気と幻覚を振り払った。
 そろそろ、この獲物を沢に放して家路に着かねばならない。
 このままでは体温が下がって凍死する。
  雨はすでに止み、宵闇が谷をおおっていた。雲が切れ、薄い雲の彼方にぼんやりと月あかりが感じられる。
 月が出れば夜道も苦にならない。

千葉県成田市からの帰り道で野生のフクロウに遭遇しました!

 崖上でフクロウが友を呼び、瀬音に負けじとカジカの澄んだ声が響いている。濡れて冷え切った体は多量の出血もあって重いが、忍び寄る初秋の夜の谷間から脱出するのは今しかない。すでに体力は限界にちかづいていて、噛まれた左足と左手は感覚を失っている。
 孝平は水中に仮死状態で動かずにいる獲物の口に差し込んだ手をゆっくりと抜きにかかった。エラの骨や鋭い歯が邪魔してとなかなか抜けず、口に余裕が出来た怪魚の噛み付きも怖れたが、すでに衰弱した怪魚にその力もないらしく、どうやら腕が抜け獲物は孝平から離れかけた。その直後だった。
 ほぼ息絶えていたかに見えた怪魚が、首をふって孝平の手をふりほどき身をひねった瞬間、大きく口を開き歯を剥き出して孝平を襲った。
 怪魚の鋭い歯に孝平の喉は骨ごと噛み砕かれ、かすかに微笑みの表情を残したまま孝平の意識がフッと消えた。
 孝平の右手は、巨魚の背を断末魔の力でかきむしったが、そのまま岩に落ちて動かなくなった。その右の拳の内に、虹色の光彩を秘めた大ヤマメの魚鱗の一片が握られている。これが魔の淵の伝説を解き明かすかどうかは、孝平にはもう知る由もない。
 怪魚は、転がり落ちるように、岩から流れに身を滑らせ、少し下流の岩かげに横たわって身を沈めて喘いだ。
 しばしの休息の後、怪魚は全身の力をふりしぼって一寸刻みに流れをさかのぼり、孝平の倒れている岩場下に辿り着いた。怪魚は流れに浸かって揺れている孝平の下流側の左脚を咥えて岩場からずり落として水中に引き込み、そのまま下流に流れた。
 怪魚は流れの淀んだ岩陰の浅場に孝平を持ち込み、鋭い歯で難なく孝平の右腕を、先刻まで自分が咥えていた左手の肩の付け根近くで噛み千切った。
 怪魚は、しっかりとその手を咥え、肩口から縦に喉の奥に呑み込み、口先から手首と五本の指がはみ出た状態で、ゆっくりと上流に向かって泳ぎ始めた。
 巨大な川魚が人間を獲物にして魔の淵に旋する。

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 流され、休み、またさかのぼってゆくその凄愴な姿は、谷をおおう梢のはるか上空から雲間洩れに射す、不気味なほど冴えて輝く上弦の月に照らされて、すさまじい艶麗さを湛えている。
 その怪魚の片割れは、先刻までの壮絶な死闘で見せた恐ろしい殺気など微塵も見せていない。そこに見えるのは美しい魚体の大ヤマメが、この獲物を咥えて、必死によろめき、流され、休み、喘ぎながら・わずかずつ上流へ上流へとさかのぼる壮絶な姿があるだけだ。
 戦利品でもある人間の腕という獲物は、先の闘いで孝平に敗れて深淵に沈んだ怪魚の伴侶への餌だったのか。
 今にも力尽きそうになりながらも、岩陰から岩陰へと巧みに流勢を読みながら怪魚は流れを遡った。その執念は、何処から湧くのか、生きることへの執着なのか。最愛の伴侶を思う情念なのか。その気力はすさまじい。
 やがて、かなりの時を経て、巨大な大ヤマメは獲物を土産に、魔の淵の淵の滝裏の棲み家に没した。
 滅多にあり得ないイワナとヤマメの交配も、長い歳月の一こまには、種の違いを越えて結ばれることがあり得るのか。断ちがたい愛縁によって結ばれ、ひっそりと深淵に身を寄せた二体の怪魚は、どのような思いで獲物を分かち合ったのか。この一対の巨大な川魚のひたむきな情愛の炎は、歴史を秘めたこの魔の淵の伝説の陰に隠れて、永遠に誰からも語られることはない。
                            終